創作を続けるための「好奇心」と「畏怖」。
こんばんは。
私は、大学院でインタラクションデザインの研究をしながら、複数の企業でデザインエンジニアとして仕事をしています。
「デザイン」というまさに流行り言葉の渦中の中に身を投じている中で、デザインの本質を捉えるためには、技術や思想の裏の「哲学」に触れ続け、自分の中で磨き上げていくことがとても重要だと思っています。
そんな中で、自分がデザイナーとして今後歩んでいく中で、とても大事にしたいと感じた言葉に出会ったので書き留めておきたいと思いました。
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まえがきにあったこの文章。
「何かを分かるということは、何かについて定義できたり記述できたりすることではない。むしろ知っていたはずのものを未知なるものとして、そのリアリティにおののいてみることが、何かをもう少し深く認識することに繋がる。」 (デザインのデザイン/ 原研哉 より引用)
全体としては、平易に言ってしまえば、自分の知っていると思っていることに再び目を向けましょう、ということに見えるけど、この文中の
そのリアリティにおののいてみること
という言葉にデザイナーらしい繊細さを感じた。
創作における「おののく」って何か。
新しいものを生み出すためには、まず面白がったり、興味を持ったりする「好奇心」が原動力となる。創作の入り口としては非常に大事な感覚である。
ただ、初期衝動から最終アウトプットとして完成させることを続けられる人には、何か好奇心とは別で抱えている感覚があるような気がしていた。それが、
「畏怖」「おののいてみる」
という感覚なのではないかと感じた。
例えば、「好奇心」とは、夜空で星を見つけて「綺麗」と感じるようなものだとする。ここでは、目に写る感覚にそのまま心が動かされている。
一方で、「畏怖」とは、夜空で星を見つけて「綺麗」だと感じると同時に、自分と星との相対的な距離感を感じ、その光が数億年前に発せられた光だということを知り、その壮大さに敬意を持って「なんだこの凄さは....」と言葉を失ないながらも、「どうやったらあそこに辿り着けるだろうか。」とリアルな肌感として噛み締めているような感覚だろうか。
つまり、畏怖とは
自分と対象との距離感、奥行きのリアリティを享受し、敬意を持っておののく。
そんなプロセスだと感じる。
日本語にはこの複雑な感覚を的確に表現した「畏敬」という言葉があって、かなり感動した。
星の例において、「好奇心」が視覚にレンダリングされた2次元的な情報のみを知覚しているとしたら、「畏怖」は感覚としてレンダリングされた美しさに浸りながらも、同時に客観的視座で全体を捉え、自分と対象との奥行きまで受け止める3次元的な知覚・解釈なのだと思う。
感覚的に熱狂し、感動することと同時に、冷静な態度で全体を見つめる。何かを変え、新しいものを生み出すためにはこの一見矛盾するような感覚を、同時に抱えながら進む必要があると思いました。
「好奇心」と「畏怖」
こんな複雑な感覚、書き留めておかないと忘れてしまうので、シンプルな言葉とグラフィックにしておきました。
ではまた。
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