私は毎朝家を出るとき、「今日はこんな心がけでいこう」という事を恥ずかしながら念仏のように唱えてから出るという習慣があるのですが、
昨年一番自分に言い聞かせていたのが、「楽しくやろう」ということです。

(ちなみに・・・私は大学生の時スポーツをしていて、朝練習に行くときに、必ず前日のノートを読み返して、プレーで心がけることを頭に入れてから練習に臨んでいたので、その時の習慣が残っています。意識しながら筋トレすると筋肉付く、という理論と同じです。)

仕事をはじめて十数年の今現在、「楽しい」が最強だなあ思い至るようになりました。

20代の頃はイベントプロデューサーをしていて
周りはその道のプロの10も20も年上の徒弟制度のような世界でいたので、
肩書は責任者でありながら経験値は少ない私は、周りにいかに自分をしっかりした人間に見せるか、知っているように取り繕うか、という事に終始していたように思います。話し方も、「わかってる感」を出すために、流ちょうに、スキがなく、賢そうに話をするように気を配っていました。


でも、例えば柴田さん。
重たい会議の場で重鎮な社長や専務がずらりと並んでいても、
聞いているこちらが楽しいしゃべり方を良くします。ちょっと物まねをいれてみたり、おとぼけだったり。しゃべりは言葉を選びながら話すのでたどたどしいし、言葉をしゃべりながら整理をしているので時に整合性がとれていないこともあるかもしれません。
でも、最初緊張してはじまった会議でも、気づいたらみんなが楽しい良い会議だったね、という空気に塗り替えることが多くあります。
とても自然なのです。素に近いかもしれません。

私が尊敬する、柴田さんの周りの経営者の方やクライアントさんも、
勿論テクニックとしてビシっとされることもありますが、
皆さん総じて、楽しくてフランクな方ばかり。良く見せようとカッコつけたり、ツンとしていないんです。会議が終わったあとは、みんな楽しい気分になっていることが多いのです。

例えば会議の場で私が陥りやすいのは、自分側の正しさをつらつらと述べてしまうこと。相手は、頭では理解しても、心では理解できないのではないでしょうか。同じ問題が後々再燃することが良くありました。ある意味、仕事をする上で正しさは時に意味がない時が多いように思います。自分だけが正しいことを言って、相手をやり込めたり、恥を感じさせたり、逆に自分が恥を感じることを恐れたり、そういう関係からは何も生まれないなと気づきました。時として必要とされるのは正しさではなく共感や、寄り添って一緒に考え、答えを出すことなのかもしれません。どうにもショートカットしたくなってそこを省いてしまいます。

私も、「楽しい」ができる人になりたい、そのために自分も「楽しみたい」「楽しめる人になりたい」「楽しませられる人になりたい」と思うようになりました。

不安や緊張などネガティブな感情が強い私にとって「楽しい」ということはなかなか難易度が高いことでした。そして単に「楽しむ」のは、単純なFUNというよりも、相手に対して興味をもつこと、相手に対して敬意を持つことから生まれるものであるのではないかと考えるようになりました。

相手に関心を持つために。敬意を持つために。
悪いところではなく良い所からみて、ひとつみつけた良い所を拡大鏡で見るかのように大きく引き伸ばす。そして、相手の価値観を、理解しようとするんじゃなくて受け入れる。
それができれば、たとえ自分と全く違う人生を歩んできた異なる価値観を持っている人に対しても、敬意を払って、良い関係が気づけるのではないでしょうか。

ああ、考えることとか気を付けなければいけないことって、たくさんありますね。不完全な自分ですが、ひとつづつ、朝念仏みたいに唱える日々を重ねて、どうにか自分が自分でいい感じと思えるようにコツコツやっていきたいと思います。


・・・金曜日更新といいながら、2日おくれで緩い感じで失礼しました💦
いろいろと不慣れですが、これからも頑張りたいと思います。どうぞよろしくお願いします!皆さん良いお休みをお過ごしください。

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