私の中のジェンダーロール

こんにちは!
すっかり時間が空いてしまいました。皆さんお元気ですか?
私は、なんだかバタバタとした日々を送っています。
今は、街づくり、ウェルネス施設、テクノロジー、新素材の健康商品、女性の心身のトラブルにまつわる事業など、色んなプロジェクトに携わらせていただいています。

最近のトピックスとして、先日、伊勢丹新宿店の売り場に立つことがありました。1.5年前くらい、一から立ち上げたブランドの初のPOPUPという事で、
企画からクリエイティブからコピーからPRからディスプレイから、
自分で企画したものを最後、お客さまに販売するという経験をさせていただきました。(接客は、高校時代のマクドナルド以来‥‥)

接客は、顔や怖いなどへたくそなのですが、企画者として本当に良い経験をさせていただきました。 (このような機会をくださるクライアントさんには本当に感謝です)
思ったことは、つくづく、机の上で考える企画と、実際売り場に立つまでの、距離の怖さ。例えばクライアントからのオーダーで「どうしてもこれを加えてほしい」ということや、
予算や与件や様々な事情などで、企画やストーリーを変形してなんとか着地まで持って行くことが多々あります(今回はそうではありませんが)
最初は純粋にお客さまのためになり、意義のあるものだったとしても、過程の中で揉むことで、どこか事業者側視点に歪んでいってしまうことがよくあります。私たちは、そこを良く見定めて、歩み寄れる部分と、結果から逆算してストップをかけるべきことと、ちゃんと判断しないといけない。
とはいえ、全く受け入れないとクライアント自身のプロジェクトににならない。当事者意識のないプロジェクトは上手くいかない、さてどこで折り合いをつけるか・・・

売り場に立ってお客さまと相対することで、そんな諸々諸々の事情なんかは、お客さまには全っっっく関係ないということを改めて痛感しました。当たり前ですが、お客さまに届き、選ばれないと意味がないと。
これは妥協なのか、協調か。そういったシーンはあらゆる仕事でありそうですよね。
色んな事情を乗り越えながらも、最後は全ての要素をそぎ落として忘れて、
目の前のただ一人お客さまにとって、魅力的か、意義のあることか、ずっと好きでいていただけるか、ということが最も大事だということ。
最近、場慣れしてきて、回すことばかりがうまくなる自分に対して、自戒を込めて書いてみました。


今日は、「自分の中のジェンダーバイアス」について、書いてみようと思います。森喜朗さんの女性蔑視発言などもあり、言葉も出ない世情で辟易としていますが、意見を言わないことが意見になる、という話をみて、私も何か書かなければと思いながら言葉をつくれないでいました。
というのも自分の視点にもきっと様々なバイアスがかかっているだろうなと思うからです。

子供の頃、私が母親へ言った言葉で後悔していることがあります。
「私は私のことを頑張る。おかあさんはおかあさんの役割を頑張って。」
確かそれは、全く弱音を吐かない母親が、小学生の私に恐らく離婚も含めたこれからの事を相談をしてきたときへの返答でした。
私が「母とはこうあるべき」というステレオタイプを基に母親を追い込んだ言葉でした。私には無意識にではありますが、強烈な「母とはこうあるべき」という思想があり、目の前にいる母自身が例え辛い思いをしてたとしても、母自身の人格を認めず、母親という役割を全うせよと。そこの離脱からは許さなかったということです。
私の母は美しく、個性的で豊かな感性を持つ人で、今の時代だったら活躍していたようにも思います。
いや、今ではなくてもその当時私が許していたら、人生が変わっていたのかもしれない。母親の「世の中的には幸せな境遇にあるけど、私は幸せじゃない」という意識の萌芽に対して、娘である私が、同性である私が、ジェンダーロールを強烈に押し付けてしまった事を、今でも本当に後悔をしています。
「女性はこうあるべき」というジェンダーロールは、
男性側だけの問題ではなく、女性の自分たち自身が自分たちを縛っていることは往々にしてあるように思います。

私も「結婚は絶対した方がいいよ」「子供を産まないと社会の一員とは言えないよ」「もう若くないんだから」「女性がそんな仕事をするもんじゃない」「そんなに仕事をして痛々しい」などとむしろ女性から言われることが多く、そういった言葉は私を苦しめてきました。
自分は自分でいい、と思ってやってきたつもりであったとしても、
何か重大な間違いを犯しているのでないか、後で後悔をするのではないか、自分が人間として欠落しているように感じることが多々ありました。
逆に、仕事をする私を見てすまさそうに申し訳なさそうにする主婦の友人もいます。居心地が悪そうで、会わなくなってしまった友人もいます。

私は、どちらが正しくてどちらかが間違っているという事はないと思っています。なんでもいいじゃん、というのが正直なところです。
私は何のめぐりあわせか今熱心に仕事をしているけれど、主婦でも家庭を第一にしている友人も尊敬している。私は自分なりの逡巡があって今この道を選んでいるけど、そういう鍛冶職人みたいな人もいてもよくて、そうじゃない人生を送る人もいて、それでいい、とみんなが心から言えるようになったらいいと思うし、更にはお互いそれぞれ自分の選んだ道に敬意を払うことができたらいいのにと、思っています。

女性だからこうあるべき、男性だからこうあるべき、という役割を押し付けたり全うしようと無理するのではなく、
家庭を持って子供をもつことが善、女は若いことに価値がある、孤独は不幸、子供を産まないと一人前じゃない、家族の形はこうあるべき、
という、私たち自身が私たちを縛り付けている価値観から自由なって、自分で自分の道を選べる世界を望んでいます。
私はこれまで、そういった自由を手に入れるために、力を付けなければならない、という切迫した気持ちの中でずっと格闘をしてきたように思います。今もまだその格闘の最中にいます。こういった格闘をせずとも、自由が得られる世界であってほしいと思います。そして自分自身が、自分が進む道を見定められるだけの視野や人間としての豊かさを身に着けたいと思っています。

シバジムは、ほとんどが女性のメンバーで構成されています。男性は全体の中でも、1、2名。色々と理由があります。柴田陽子事務所という名前で女性が代表をしている会社にご依頼をしていただく時点で、
女性の視点をクライアントさんが求めているということ。また、重箱の隅をつつくような細かな気付きが重要になるので、そのような視点を持つスキルは女性の方が傾向として高いと考えていること。(例えば、タクシーにのって、気付きが30個くらい言えるのがブランディングをつくっていく上で必要なスキルです)。こうして書いていると、時代も進んでいるのでその視点自身にジェンダーバイアスがかかっているのかもしれません。
ただ、私たちが女性メンバーの意識を変え、活躍できる場をひとつひとつ形にしていっているのもまた事実です。
でも、女性ならではの、とか、ママ視点の、という風に言われるのはちょっと苦手。
女も男もなく、常に結果を出せるプロでありたい。

女性が多く働く会社をやっていくということを、どう捉えればいいのか、私はもっともっと考えていきたいと思っています。
上手く言えないのですが、全ての人に敬意を持つことが、何よりの鍵であるではないかと私と思っています。

まとまりのない文章ですみません。
先日、件の伊勢丹に、私のnoteを読んでくださる方が、数名足を運んでくださり、中にはお手紙を下さる方もいて、大変に驚きました。
連絡先を伺えずお礼もお伝えできず、この場を借りて、本当にありがとうございます。私の好きな小説や映画の感想とか、恋愛日記とかだったらもっと面白くかけるんですが、何か仕事上で有益なことを書かねば・・・と思い、迷いが生じたまま1年が経ちました。
有益なことは書けないので、日々揺れる考えみたいのを、書き綴ってみたいと思います。何か、書いてほしいことなどありましたら、是非コメントいただけましたら嬉しいです。

今日の東京は冷たい雨の1日となりました。それでは皆さま、どうぞ心身共に健やかにお過ごしください。

中原真理
柴田陽子事務所


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