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短編小説・穴

職場をクビになった。
妻の浮気を知ってから僕の皮膚炎は悪化した。
穴は僕の妻の浮気現場に繋がっていた。
僕はその様子を恍惚と眺める、、。

【穴】

 職場をクビになった。
 いや、建前上は自主的に会社を辞めたのだ。
 どのみち僕は会社の不用品になった。
 僕は少し病んでいるのだ。

 僕は長年使った黒い鞄に荷物をまとめると、会社を後にした。
 しばらく街を歩き回ったが、行くべき先が思い当たらなかった。
 僕は酒が飲めないのだ。
 仕方なく、僕は家路に着いた。

 家では妻が待っていた。
 いや、僕を待っていたわけではないだろう。
「あら、あなたなの。ピザかと思った」
 玄関の扉を開けると妻は言った。
 そして、顔から笑顔を消した。
 
 間もなく到着したピザを挟んで、僕と妻は食卓に着いた。
 食欲など沸くはずもなかった。
 週の半分はピザなのだ。
 いや、そうではない。
 妻に失業したことを伝えるのに気が重いのだ。
 僕はそれを言い出すタイミングを見計らっていた。
 気づくとピザは跡形もなく消えていた。
 テーブルの上にはビールの空き缶が並んでいた。
 「ねえ私、明日から勤めに出るから。もう、決めたことよ」
 妻はげっぷを吐き出すと、寝室に入っていった。
 
 翌朝、妻は早い時間に颯爽と家を出て行った。
 昨晩、彼女が言ったことは本当だったのだ。
 僕は冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップに一杯飲むと、ソファに寝転がった。
 妻は僕が失業したことを知っているのだろうか。
 よくわからなかった。
 とにかく僕は、苦渋の告白から免れたのだ。
 僕は再び目を閉じて、眠った。
 体中の痒みで目を覚ましたときにはすでに夕方になっていた。
 もうすぐ妻が帰ってくるのだ。
 僕はストレスから体を掻きむしった。
 乾燥した皮膚が鱗のように剥がれ落ち、白い粉が舞った。
 僕がこれをすると妻は別段嫌な顔をするのだ。
 そもそも僕のアトピー性皮膚炎が悪化したのは、妻の浮気を知ってからなのだ。
 おかげで皮膚が崩れた額の生え際の辺りの髪の毛は抜け落ちてしまった。
 そんな僕の姿に妻は冷ややかな目を向けるのだ。
 
 妻は夜遅くに帰ってきた。
 「夕食は?」と僕が聞くと、彼女はまるでそんなことなど忘れていたかのように、「ああ、済ませてきたのよ」と言って、そそくさと寝室に入っていった。
 それから、僕は妻が勤めに出かけた後の時間の大半を、昼寝をするか皮膚炎を掻きむしるかして過ごした。
 そうして夕方になると、僕は買い物に出かけ夕食の用意をした。
 しかし、妻は悪びれもなく、毎晩遅くに帰ってくるのだ。
 僕はテーブルの上に降り積もった皮膚の欠片を定規でかき集めては、箱の中に落としていった。
 その箱は会社から持ち帰ったもので、いわば僕の分身の収集箱なのだ。
 箱の中には半透明のやや角を持った結晶のような白い粉が満たされており、見ようによっては美しいのだ。
 結局、僕が会社から持ち帰ったものといえば、これだけだった。

 会社での僕はほとんど目立たない存在だった。
 初めのうち僕は人目を気にしていた。
 しかし、ひとたび視界から人影が消えるや否や、痒みは体中を駆け巡り、僕の指先は痒みを追って、体中を華麗に這い回るのだ。
 次第に僕は掻くという行為に没頭していった。
 掻いている間だけは我を忘れ、無心の境地に至るのだ。
 ふと我に返ると、もうもうと立ち込める霞の向こうに、冷たい視線をいくつも感じるのだ。
 その視線にさえも、僕は快感を感じるようになった。
 僕は会社の連中から距離をおかれ、その行為に病名をつけるために病院に行くよう指示され、そして自主退社に至った。
 しかし、今にして思えば、それは仕方のないことだ。
 何しろ僕はろくに仕事もせずに、体中を掻きむしっていたのだ。
 おそらく、皆が言うように僕は病んでいたのだろう。

 あるとき、僕は腕にあずき大のかさぶたができているのを見つけた。
 おそらく掻きむしった時に出血したのだろう。
 僕はそれを剥がさずにはいられなかった。
 そうした衝動がうずうずと湧き上がるのだ。
 僕は慎重にかさぶたの周辺を爪先で浮かして、ピンセットでむしり取った。
 そしてそれを収集箱にしまった。 
 次の日にもそこにかさぶたはあった。
 無理やり剥がし取ってしまったせいだろう。
 もちろん、僕はそれを剥がして箱にしまった。
 日毎にかさぶたは大きくなるようだった。
 つまり傷が広がっているのだ。
 僕はかさぶたをひっくり返し、皮膚と接合面を観察した。
 それは生肉の一部といった感じでぬめぬめと光り、画鋲の針のように中央が尖っているのだ。
 そのうち僕の腕にははっきりと穴と呼べるものができあがった。
 
 かさぶたをめくるとそこには穴があった。
 僕はその穴を覗き込んだ。
 それは想像に反して、そうとうに深いようなのだ。
 僕は穴に糸を垂らしてみた。
 引き上げてみるとそこには、緑がかった黄金色のカナブンがもつれ合ってくっ付いているのだ。
 僕はそれをまじまじと眺めた。
 カナブンは絡み合ってブドウの房のようになっている。
 僕は窓を開け、それを外に放り投げた。
 カナブンの房は空中で分解されると、散り散りバラバラな方向に飛んで行った。  
 僕は再び、穴に糸を垂らした。
 次に糸を伝って這い上がってきたのはアリの一群だった。
 それらが出ていってしまうと、穴は随分すっきりしたようだった。
 覗き込んでみると、妻のいる職場が見えた。
 まるで天井裏から見下ろしているような具合なのだ。
 妻は胸元の開いたシャツにタイトなスカートを身につけて、家で見せることのないキビキビとした様子で仕事をしていた。
 そして特定の男のところにたびたび足を運んだ。
 それこそが妻の浮気相手の男なのだ。
 僕はその男をよくし知っていた。
 興信所から報告書と妻と一緒の男の写真が届いたからだ。
 僕は男の素性や仕事、年収、家族構成、妻とよく行くレストランからホテルの名前まで知っているのに、向こうの男は僕のことを何も知らないというのは不思議な感じだ。
 もっとも妻が男に僕の愚痴をこぼしているのに違いない。
 男と比べて僕は何1つ、男に勝る部分が見当たらなかった。
 妻がその男になびくのも無理はない話なのだ。
 しかし、その解釈とは別に、僕はやはり傷ついているのだ。
 穴から覗く妻は女らしく生々しかった。
 僕は不覚にもその姿に勃起をしてしまった。
 妻が仕事を終え、会社を出ると穴の中は電気が消えたように真っ暗になった。

 その晩もちろん妻は遅くに帰ってきた。
 彼女が玄関の鍵穴にガチャガチャと鍵を差し込んだのは、間もなく日も変わろうとする時刻だった。
 彼女が扉を開ける前に、僕は内側からドアを開き彼女を迎えた。
 彼女は一瞬、驚いたような目をしたが、すぐにいつもの無表情に戻り、憔悴しきった様子で、僕の脇をすり抜けて寝室の扉を閉めた。
 彼女は「お疲れ」なのだ。
 僕は失業してからというもの妻と寝室を共にしていない。
 居間のソファで毛布をかぶって眠るのだ。
 妻はそのことにはまるで気づいていないように、何十年も前からそうだったように、寝室の部屋を独占しているのだ。

 もちろん、穴から妻を覗き見することは、僕の日課となった。
 しかし、肝心なところは穴から覗くことはできないのだ。
 つまり浮気現場だ。
 もっと言えば、僕は妻が他の男に抱かれている様子を見たいのだった。
 僕は穴を掘り進めることを考えた。
 それで僕はまず、穴に入ろうと思った。
 それは物理的に不可能なことのように感じたが、やってみるととても簡単だった。
 つまり、穴は僕の腕に空いているのにも関わらず、僕はその穴の中にいるのだ。
 僕が掘り進めるまでもなく穴は、幾つにも枝分かれしてトンネルのように通路が広がっていた。
 僕は仕事を終えて会社を出た妻を追った。
 妻は会社から離れた街角に佇んで娼婦のように男を待っていた。
 それから彼らは店に入って食事をし、ホテルに向かった。
 妻は完全に男に恋をしていた。
 それは彼女の一挙一動から切ないほどに伝わってくる。
 妻はまるで処女のように恥じらいながら男に身を委ね、いろいろな形に体を曲げたり、声をあげたりしているのだ。
 僕は穴に張り付いて彼らの行為を眺めながら自慰をした。
 その間に、カエルがじろじろ眺めながら通りかかった。
 猫が身をすり寄せながら通り過ぎていった。
 しかしこの今までに感じたことのないほどの興奮を止めることはできないのだ。
 妻もまた二人の男に共有されていることをわかっているかのように、高揚しているのだ。
 
 帰ってきた妻はまるで別人のように無表情を貼り付けて、僕の横を通り過ぎ、寝室の扉を閉めた。
 僕はその後ろ姿を好ましく眺めた。
 僕はバスルームに入り裸になった。
 鏡に醜い中年の男が映っていた。
 さっき妻が抱かれていた男の体とは雲泥の差だ。
 僕はたるみきった白い腹の肉をつまんでみた。
 毛の飛び出た乳輪を指でなぞり、乳首をつまんだ。
 それから垂れ下がった睾丸を手で掬った。
 この体でもう妻を抱くことはないのだろう。
 そう思うと、自分の体がいっそう健気で愛おしく感じるのだった。

 もちろん、妻の性行為を眺めながら自慰することが僕の日課となった。
 それは僕にとって人生の中で得た至上の喜びだった。
 妻が男に恋をしているように、僕もまた恋する妻に恋心を抱いているような心持ちなのだ。
 不思議なことに、あんなに悪化していた皮膚炎も疼かなくなった。
 
 それはささいなやりとりから出た言葉だった。
 「私のことなんて何も知らないくせに」という妻の言葉を受けて、口から出てしまったのだ。
 「知ってるさ。下着につける香水を変えたことだってね」
 言った途端に失言に気づいた。
 でも、後の祭りだった。
 妻は殺人者でも見るような血の気の引いた顔で僕を凝視していた。
 そして勢いよく寝室の扉を閉めた。
 当然のことながら、彼女は僕が浮気のことを嗅ぎつけたのだと疑っているようだった。
 あそこまで大胆に毎晩、遅い帰宅を繰り返しておきながら、いざその段になってみると、彼女はかなり混乱しているようなのだ。
 そのおかげでトンネルは通行止になった。
 たくさんのアヒルたちが道を塞いで騒いでいるのだ。
 僕はアヒルたちを穴の外に追い立てて、穴を覗き込んだ。
 その日のSEXはまるで身が入っていないようだった。
 僕は妻に悪いことをしたと思った。
 それから僕はなるべく妻に干渉しないようにし、温かい目で彼女を見守ることに努めた。
 けれど、僕の失言をきっかけに、妻は男と次第にぎこちなくなり、二人の関係はあっという間に終わってしまった。
 妻は夕方になると家に帰ってくるようになった。
 いざ、食卓で向かい合ってみると、妻はただの中年の女なのだ。
 僕の楽しみはなくなってしまった。
 「ねえ、あなた。私、仕事をやめようと思って」妻が言った。
 「まあ、いいんじゃないか」
 妻は箸を置いて席を立つと、寝室に入っていった。
 僕は黙ってそのあとに続いた。

 腕に空いた穴はいつの間にか埋まってしまっていた。
 僕の皮膚は再び猛烈に痒みを発し、かきむしるとそれは白い粉を撒き散らすのだ。

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