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授業回顧録〜グループでの意思決定〜

先日の授業で以下のような場面があった。

日本の地名を覚えるボードゲームをつくりながら「ゲーム化」について学ぶ授業中、ゴールをぴったり止まって初めてゴールにするか、行きすぎてもOKにするかということで、3人の生徒と1人の生徒が揉め始めた。

最初は静観していた。が、少数派だった1人の生徒が、思い通りにいかないことに納得がいかず、議論を投げだし、「もう知らん、好きなようにやったら」と議論を投げ出した。多数派だった3人はその1人を無視してワークを進め始めた。

「これはまずい」と思い、グループの中に入り、それぞれに「なぜぴったりゴールにしたいと思ったか」「なぜぴったりゴールは嫌なのか」を問うた。

ぴったりゴール派
「マス数が少ないので、ぴったりじゃないと難易度が低すぎる。難易度は多少高い方が面白い」
ぴったりゴール反対派
「前ぴったり止まらないといけないすごろくやった時すごく時間がかかった。正直最後ゴールできるかどうかの時間はつまらない」

ふむふむ、なるほど。両者それぞれ納得できる意見があって素晴らしい。

2者の課題を整理して、2つの課題が解決するようなアイデアを出すよう求めた。
すると「跳ね返りマスを作ればいいのでは」という意見が出た。
ゴール1つ前に跳ね返りマスを作ることで、仮に4マス前で6がでた時でも跳ね返りマスを利用してゴールできるようにするというものだ。これにより、4でも6でもゴールできるようになり、ゴールできる確率は2倍になる。

結果両者が納得するようなアイデアでまとまった。

ただ、このやりとりが実際よかったのか。今回はたまたま合意形成できたが、意見が分かれた時今後どう関わるべきだったか正直自分の中で迷っていた。

ちょうど教育学について探究する中で苫野一徳さんという方に強い興味を持っていたので、「子どもたちに民主主義を教えよう」という本を手に取ってみた。

読みながら、「あぁ、よかったんだな」と改めて思えたのは、多数決に頼らずみんなが納得できる形に落とし込めたこと。
苫野さん、工藤さんは本文のなかで、民主主義的な社会=誰一人置き去りにしない社会という定義をした。その上で多数決は少数派の意見ご切り捨てられる部分を問題提起し、対話を通じた合意形成を取ることを推奨していた。

一方で、読みながら気づいた反省としては「みんなが納得する形で議論を進める」という前提が抜けていたこと。
仮に、
最上位目標:楽しく日本地図を学べるゲームをみんなで作る
を事前に伝えることができていたら、1人がかけた時点で「みんなで作る」が未達成になることに気づき、大人である自分が介入しなくても問題を解決できたかもしれない。

「困ったら大人が解決してくれる」と認識すると主体性を持った子どもは育たなくなる。
主体性、独自性、社会性を育むための教育プログラムを提供したいと思っている自分としては、ここは大きな課題であった。

最上位目標を握った上で、いかに生徒の主体的な議論を促せるか。今後も頭を絞って向き合っていきたい。

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