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宮田裕章「共鳴する未来」を読んで。

まえがき

DX,DX,DX。デジタル、デジタル、デジタル、ハンコ廃止、廃止、廃止。と読んで聞く日々です。

データ=情報だと思っていましたが、どうやらもう少し大きな範囲で使われる用語のようです。語源も現在の使われ方とは少し異なるようですが、ここでは定義のみ扱いたいと思います。

1:推論、議論、または計算の基礎として使用される事実情報(測定値や統計など)

2:送信または処理できるデジタル形式の情報

3:有用で無関係または冗長な情報の両方を含み、意味のあるものにするために処理する必要がある、センシングデバイスまたは器官によって出力される情報

もう1つ、オープンソースなどと使われる場合のソースの定義をみてみたいと思います。データを流動的、生成的なものと捉えるのがソースなのかなと感じます。

1 生成力の原因となる
(1)起点または調達、開始
(2)開始するもの、作成者またはプロトタイプ、モデル
(3)情報を提供するもの

序章 コロナ禍が突き付けた文明への問い

序章では、アルビン・トフラーという方の「情報」革命について触れられています。

情報革命を踏まえての「価値革命」

それは、社会を駆動する資源が、石油からデータへと転換している点に求められます。

そうなのかな。データが電気などのエネルギー資源となるのかな。電気がないとデータを扱う計算機も動かないんじゃ。

エネルギー資源は、使ったら終わりで、さらに地下から、海底から、太陽から、波からなど持ってこないといけません。ときにエネルギー資源が戦争の原因となるのは、誰(どの国)が資源の所有権を獲得するかが、国家にとって死活問題となるからだと思います。

エネルギー資源に対して、データは誰かが消去しない限りは何度でも目的に応じて利用が可能であり、場合によっては(お古を)使い回した方が精度が上がったり良い事もある、それは一定の制限はあるが(今、企業や国家間でバチバチとやっている最中)、原則として、特定の誰か(国家)が所有するものではないこと。著者の言葉では、共有財。

私が共有財ときいて思い浮かんだのが、入会権です。

歴史的には、明治に近代法が確立する以前から、村有地や藩有地である山林の薪炭用の間伐材や堆肥用の落葉等を村民が伐採・利用していた慣習に由来し、その利用及び管理に関する規律は各々の村落において成立していた。明治期にいたり、近代所有権概念の下、山林等の所有者が明確に区分され登録された(藩有地の多くは国有地として登録された)。一方、その上に存在していた入会の取り扱いに関し、民法上の物権「入会権」として認めた。なお、このとき国有地として登録された土地における入会権については、政府は戦前より一貫してその存在を否定していたが、判例はこれを認めるに至っている。
戦後になって、村落共同体が崩壊し、また、間伐材等の利用がほとんどなくなったという事情から、立法時に想定していた入会は、その意義を失ったかに見えるが(「入会権の解体」)、林業や牧畜のほか、駐車場経営など、積極的経済活動の目的で入会地を利用するケースが見られるようになり、また、道路開発・別荘地開発等における登記名義人と入会権者の権利調整、さらには山林の荒廃による環境問題といった新たな問題が発生するようになったため、入会権という概念の現代的意義が見直されつつある。但し、政府の見解、ことに農政の見解としては入会権は明確さを欠く前近代的な法制度であるとの意識があり、これを解消し近代的所有権に還元すべきことが一貫した政策であり、それを促進するために、入会林野等に係る権利関係の近代化の助長に関する法律(入会権近代化法)が昭和41年(1966年)に制定されるなどしている。
なお、漁場に関する漁業権・入漁権・入浜権、水源・水路に関する水利権、泉源・引湯路に関する温泉権については、入会権と混同した主張がなされることが多い。漁業権、水利権は、それぞれ、漁業法、河川法が定める公法上の権利(特許)であり、入漁権は、漁業権を有する漁協の構成員としての権利である。 温泉権は慣習上の物権的権利であるが、日本では物権法定主義を採用しているため、理論上は一種の債権であり、信義則の働きによって物権的な性質を示しているとされる。

誰かが、山に入ってデータを使用したり、加工して生活に役立てる。それを村落共同体で欲しい人がいればコピーしてあげて、元データと加工データを山に戻す、というような感じです。

序章終盤には、宮田教授がデータを扱う専門家になる経緯について記載があります。


第一章 データ駆動型社会はヘルスケアから始まる

個人の健康状態のデジタル化(による管理)、遠隔医療、医療者の実績データのネットワーク化が進む、というようなことが記載されています。

この部分は、私の仕事にも関係があります。高齢者が契約を結ぶとき、または遺言を書くときに判断能力があったのか、という今まで訴訟に発展することの多かった部分が、かなり改善されるのではないかと考えています。

第二章 これからのデータ・ガバナンスーデータは誰のものか

 ん。共有財なのに、結局誰のものかという所有の問題に行き着くのだろうか。といっても山に木を植えたのは誰か、どのようなときに利用できるのか。山から外に持ち出す場合の条件は?などの流れに沿って柔軟なルールを構築していく必要がある、ということだと理解しました。

GDPR(General Data Protection Regulation:一般データ保護規則)
EU(※)では、EU域内の個人データ保護を規定する法として、1995年から現在に至るまで適用されている「EUデータ保護指令(Data Protection Directive 95)」に代わり、2016年4月に制定された「GDPR(General Data Protection Regulation:一般データ保護規則)」が2018年5月25日に施行されました。
GDPRは個人データやプライバシーの保護に関して、EUデータ保護指令より厳格に規定します。
また、EUデータ保護指令がEU加盟国による法制化を要するのに対し、GDPRはEU加盟国に同一に直接効力を持ちます。
※EU:EU加盟国及び欧州経済領域(EEA)の一部であるアイスランド、ノルウェー、リヒテンシュタイン

 日本では、民間のプラットフォーム企業と国家との連携が、今後ますます重要になる、というようなことが記載されています。

 何となく安全保障という面でも、連携しておくことは(抑止力ではないですが、適度な緊張という意味で)プラスになるんじゃないかと感じました。

APPA – Authorized Public Purpose Access
本白書における発見は以下の3点である。
1. データ流通のためのガバナンスギャップを特定する
2. ガバナンスギャップを埋めるうえで考慮すべき3要素を示
す。
3. そのうちの1要素(実現される価値)に着目したデータガ
バナンスに関するコンセプトとして、Authorized Public
Purpose Access(APPA)を提唱する。

終盤では、GDPRの考え方や、日本におけるデータと国家、個人との関係について、どのようなデザイン(アプリによる行動変容、公共の目的の基準)が必要なのか、個々の事例、法律からの対話がなされています。

第三章 多元化するデータ・エコノミー

 データ駆動型社会は、多元な価値を認める。労働価値説は、人の労働がモノ、サービスをつくり、売買することで利益が生まれる考え方。データ駆動型社会では、データが価値の源泉となる。というようなことが記載されています。

 この箇所に関しては、私の考えは違います。人間の労働力が商品化されることによって、価値の源泉となり売買の対象となる、という風に考えます。それは材料が鉄であっても、データであっても変わりません。よって、今の資本主義市場で一番実体と近く利益が安定するのは、パソナなどの人材派遣業となります。

社会信用スコアは、今後一部分(おそらく金融と医療・介護)に利用されれば、効果はあると思います。全てではないと思いますが、何が問題なのか、私には現状分かりません。スコアの計算方法が明確になれば良いという考えもありますが、民間プラットフォーム、国家が機微に触れるデータの場合にそれを公表する保証はあるのか分かりません。また低い点数を突き付けられた人間は耐えられる程強いのかな、と感じたりまします。

抄録
決済サービスに関する利用実績や学歴・財産などの属性によって個々人の持つ信用力を評価し、スコアとして表示する「個人信用スコア」については、中国において普及し、日本でもサービス展開が試みられていることから、注目が集まっている。本稿はその特徴を確認したうえで個々の事業者による対応の基礎として用いられる場合にはむしろ同等のものを同様に扱うという正義の原則にかない、反差別的なものとして評価できると判断する一方、その範囲を逸脱して懸念される状況について検討を加え、その最大の問題として国家が統一的な「社会信用システム」へと成長させる場合を挙げる。また、セバスチャン・ハイルマンによる「デジタル・レーニン主義」概念を紹介し、その性格が近代社会の基本原理に抵触することを指摘したうえで、個別事業者・国家のそれぞれが個人信用スコアなどのビッグデータ活用を試みる際に規範的に求められる対応について一定の見解を示している。

「共有価値」についても、少しひっかかるものを感じました。皆が共有する価値ってどうやって作るんだろう、と思ったからです。個別に定期診断済価値、(信用ではなく)支払完済価値、などと個別に具体的な名前を付けた方が分かりやすく、人々がそれを使っているうちに同じ認識を持ってくると、共有という概念が生まれるのではないかと思います。

この辺りについては、本書でも触れられています。

第四章 「生きる」を再発明する

「新しい社会契約」という用語が登場します。個々人は、「共有価値」を共通認識として、コミュニティ、組織、国家とあらゆる事態に応じてデータの出し入れをすることが出来る、という風に理解しました。このような方法を採用する場合、前提としてある程度自分で判断することが出来る成人が人口の一定割合いることが必要だと思います。実現することは出来ると思います。データと個人、コミュニティと国家、データと組織などの複雑系を、少し綻びが出ても調整できるようなデザインが求められるのではないかなと感じます。

これも本書で考察されています。