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分断と多様性について


タイトルは5月か6月頃につけていて、ずっと下書きのままでした。
整理は出来ていないし、間違っているのかもしれませんがここら辺で自分なりにまとめておきたいと思います。


きっかけ

考えるきっかけはコロナ禍です。2月頃からコミュニケーションをオンラインでせざるを得ない状況になり、パソコン、カメラ、マイク、マルチスクリーン。そして、インターネットに接続するための回線が必要な状況となってきました。ここから分断が始まるだろうと。

自粛警察?、クラスターフェスティバル?

医療従事者、感染者、地方のなんとか、エッセンシャルワーカー・・・。

インターネットに繋がるからといって、メリットばかりではありませんでした。Twitterでの誹謗中傷により、命を絶つ方が出ました。番組もTwitter上のやり取りも知らず、亡くなってから知ることになりました。5月のことです。多様性。

同じく5月、アメリカでの事件によって、Black Lives Matterという言葉を初めて知りました。複雑で根深いものがあるようです。高校のとき、先生が多様性の象徴のように言っていたアメリカでの分断。


参考にさせていただいたこと

① 臨場性は暴力である。
 暴力とは何か。ここでは哲学的文脈を優先して「他者に対する力の行使」をすべて暴力と呼ぶことにする。「力」にはもちろん物理的なものから心理的、形而上的なものまでが含まれる。それゆえすべての暴力が非合法とは限らないし、ある種の暴力は悪ですらない。実際、デモから革命に至るまで、ほとんどの正義は暴力的に実践される。国家が暴力(警察、軍隊)の管理装置であるという認識は社会学では常識に属するはずだ。
 政治的な話がしたいわけではない。ここで私が述べた暴力の定義を採用するなら、社会の至るところに暴力がある。人と人が出会うこと、人々が集まること、膝を交えて話すこと。それらすべてが、どれほど平和的になされたとしても、そこには常にすでにミクロな暴力、ないし暴力の徴候がはらまれている。身体的・物理的な暴力はもちろん、その人の態度や言葉、表情にすら一切の攻撃性や暴力性がみあたらなかったとしても、そうなのである。
 そういえば十二鬼月の上弦の参である猗窩座は「赤子ですら薄い闘気がある」のに背後に迫る炭治郎の闘気を感知できず驚愕するわけだが、本稿での「暴力」は、この「闘気」にほぼひとしい。「普通に生きること」のあらゆる瞬間に闘気=暴力が満ちている。この意味での暴力の否定は、ほとんど人間の否定にひとしい。
 もしあなたが私のように、対人恐怖的ないし発達障害的な認知特性を持っているのなら、このことはたやすく理解できるはずだ。他人と会うことはいつでも圧力であり、侵入であり、つまりは暴力であるということ。私は精神科医として、という以上に、一人の「当事者」としてそれを知っている。
 ここでもう一人の証言を引いておこう。自閉症当事者のドナ・ウィリアムズは、親切にされること、見つめられること、抱きしめられることはことごとく苦痛であったとその著書で述べている。たとえば以下のように。
あんたなんかに会いたくない、帰ってよ、とウィリー(※筆者注:ドナの別人格)は怒鳴った。しかしティムはわたしの手を取ると、わたしにやさしくキスをしたのだ。わたしは両手で乱暴に彼を押しのけた。親密さは痛みに感じられて、耐えることができなかった。ティムは立ち尽くしたまま、そうやってわたしが一人で自分と闘っているのを、見つめていた。(ドナ・ウィリアムズ『自閉症だったわたしへ』新潮社)
 私は発達障害当事者ではない(たぶん)が、ドナの感覚は共感的に理解できる。「優しさ」もまた暴力であるということ。どれほど慈愛に満ちた、優しげな他者であっても、私の自我境界——ATフィールド?——を超えて接近してくる他者は恐ろしい。それは私がその他者に好意を持っているか否かとは無関係だ。むしろ、好きだからこそ恐ろしい、ということもある。もっとも、そうした恐怖は瞬時に揮発するし、その後は親密さの暖かい感情が回復されもするだろう。だから私は、そんな恐怖などまるで感じていないかのように振る舞える。それはたぶん成熟のおかげなのだが、しかしそれでも、私の成熟はこの恐怖を完全に消してはくれなかった。
 デリダは言語的差異体系の根源にarchi-violence(原初の暴力)すなわち分割する作用を想定していた。ラカンも言語の根源に「否定」の働きを想定しており、この文脈で考えるなら、私の主張は決して過激でも荒唐無稽でもない。社会の現実が言葉とコミュニケーションから構成されるとみなす社会構成主義的な立場をとるなら、「臨場性の暴力」は、こうした言語の暴力性に根ざしているとも考えられる。
 人と人が出会うとき、それがどれほど平和的な出会いであっても、自我は他者からの侵襲を受け、大なり小なり個的領域が侵される。それを快と感ずるか不快と感ずるかはどうでもよい。「出会う」と言うことはそういうことだし、そこで生じてしまう“不可避の侵襲”を私は「暴力」と呼ぶ。再び確認するが、この暴力はいちがいに「悪」とは言えないし、あらゆる「社会」の起源には間違いなく、こうした根源的暴力が存在する。暴力なくして社会は生まれない。
 それでは私のような人たちは、この長いひきこもり生活の中にあって、再び人々と親しく交われるようになる機会をどれほど待ち望んでいたのだろうか。またあの日々に戻りたい? 親しい人に会えるのが楽しみ? それとも、ちょっと気が重い? あともう少しだけ、こんな日々が続いて欲しい? きっとどの感情も嘘ではない。そうしたあなたの「楽しみ」も「気の重さ」も、出会いの暴力性によるものだとしたらどうだろう?
 何かを決めたい、依頼したい、説得したいと思うとき、人は会うこと、集まること、すなわち「臨場性」を求めがちだ。なぜか。そのほうが「話が早い」からだ。なぜ話が早いのか。それが「臨場性の暴力」の行使だから。これから述べていくように、暴力は欲望を加速し、関係性を強化する。臨場性という暴力には、人々の関係と欲望を賦活し、多様な意思をとりまとめ、決断と行動のプロセスを一気に前に進める力がある。集団の意思決定において、しばしば集まって対話することが必要とみなされるのはこのためだ。この効率化のおおもとに「臨場性の暴力」があるということ。このことに気づき、自覚できるのは、人類の歴史上、もっとも臨場性が剥奪された今をおいてほかにない。
② 臨場性と欲望。
 われわれは、たった一人では自分の欲望を維持することができない。ラカンの最も良く知られたテーゼ「欲望は他者の欲望である」はかなり多義的な言葉だが、つまるところはそういうことだ。欲望の起源は他者である。人は欲望を他者から供給され続けなければならない。それは「他人が欲しがるものが欲しくなる」という意味だけではない。われわれは自分の欲望の形式や作法、そして対象までもことごとく他者から学ぶ。そのうえで自分の欲望を他者に見せつけそれを承認されたいと願う。しまいには「満たされない欲望を持ちたいという欲望」を持ってしまったりもする。つまり、人間の欲望のあらゆる過程に、他者が関わってくるのだ。コロナ禍でひきこもり生活を強いられた人々の多くは、大なり小なりそれを実感しているのではないか。
 さきほどのテーゼにおける他者とは、言語システム(象徴界)の謂でもあるのだが、この点はひとまず措こう。他者との出会いがないままで過ごしていると、しだいに欲望が希薄になり、その宛先が曖昧化してしまうという臨床的事実がある。たとえば多くのひきこもり当事者が、そうした経験を語ってくれる。何年もひきこもり続けていると、自分の欲望がわからなくなり、まったく消費活動をしなくなってしまう人が少なくない。まれに過剰な浪費に走る人もいるが、購入品の包装も開けずに部屋に積み上げてあったりする。そうした浪費は、もはや欲望よりも依存に近い。
 そこそこ快適にひきこもってはいるものの、何となくやる気がわかない、気合いを入れようにも踏ん張れない、という声をしばしば聞く。なにより私自身がそんな状態になっている。こうした無気力さの原因、少なくともその一部は「他者の不在」によるのではないか。これまでの議論をふまえ「他者の暴力の不在」と言ってもよい。
 長い自粛生活の中でも、たまにはリアルな会議や打ち合わせ(もちろん三密を避けて)があったりする。正直、参加するのは気が重いこともある。ところが、思い切って参加してみると、少なからずやる気が賦活されたりする。そんな経験はないだろうか。個人的には、オンライン会議にはこうした効果が比較的薄いように思われる。安定した意欲の回復には、繰り返し「臨場性の暴力」に曝される必要があるのだろう。欲望の起源は他者であるとして、欲望の活性化をもっとも促進してくれるのは暴力だ。もう少していねいに言い直すなら、「臨場する他者からの、ほどほどの暴力」ということになる。
③ 臨場性と関係。
 オンラインでは完結できない領域とは何だろうか。少なくとも「関係性」が重要な意味を持つあらゆる領域は、今後も臨場性が必須となるだろう。性関係はもとより、治療関係、師弟関係、家族関係、などがそれにあたる。言い換えるなら、関係性よりもコミュニケーションが意味を持つ領域では、臨場性を捨象するほうが効率化されるため、オンラインで完結できるだろう。おわかりの通り、関係性とコミュニケーション(情報の伝達)はまったくの別物であり、私からみれば、ほとんど対義語ですらある。

 自分なら暴力は影響、臨場性はそのまま関係と読み替えます、みたいな感想をどこかに書き込んだのですが忘れました。

もう1つnoteより

コロナウイルスが社会に与えた最も大きな影響は、見えづらかった社会の分断を可視化したことではないでしょうか。ステイホームできない、明日を生きるのすら精一杯な人。パソコンを持っておらず、家では完全に社会から隔離されてしまう人。勉強ができるような家庭環境でない人。外で遊ぶ自分を自慢げにSNSに載せる人。「クラスターフェス」と称し、コロナに積極的にかかろうとする人。感染者を引っ越しにまで追い込む地方の村社会。
普段暮らしているとそのような人と出会わない、という人が殆どでしょう。だけど、これが、今の日本社会なのだと思います。
「人はその周りの五人の平均値だ」という言葉がある通り、社会的ステータスの近い人々は集まりやすく、自分の見えている物が世界の「ふつう」であると錯覚してしまいます。しかし、自分の見ている世界は社会のほんの一部にしかすぎません。校外で活動するにあたり世の中の「ふつう」の感覚があることを強みにしてきた私ですが、その「ふつう」の感覚はその人の生育環境にあまりにも依ってしまうこと、また、自分自身の「ふつう」の感覚に頼り過ぎている自分の存在にも気が付きました。そこで今回は、私にとっての「ふつう」について書きたいと思います。あなたのふつうも、教えてください。

 この記事に関しては、感想を書いていました。団地は楽しかった。同級生たくさんいたし。ケンジューっていうんですね。知らなかった。たしかに自分を含めて片親は多かったかも。ただ、新しく出来た団地だったから、親の教育に関する関心は高くて、学校の成績が良い人もたくさんいた。そこはこの方と違うところ。ひまわり学級の代わりに、なかよし学級というのがあった。からかわれることも多かったけど、無視されることはなかったと思う。自分はなかよし学級でも、苦手な人とそこそこ話せる人がいた。たまたま司法書士になれたから、こんなnoteに触れることが出来るのかも。司法書士になったから、生れ育った環境に割れ目を感じることもないということはない。違う道を作って、割れ目を少しは継いで、次に渡すことが出来たら良いな、とかが第一印象。自分の周りのことしか出来ない。

というようなことを6月に書いていました。この方の邪魔はしないでおきたいと思います。

参考にさせてもらったこと2


今後、多くの短期的な緊急措置が生活の一部になる。非常事態とはそういうものだ。非常事態は、歴史のプロセスを早送りする。平時には討議に何年もかかるような決定も、ほんの数時間で下される。未熟なテクノロジーや危険なテクノロジーまでもが実用化される。手をこまぬいているほうが危いからだ。いくつもの国がまるごと、大規模な社会実験のモルモットの役割を果たす。誰もが自宅で勤務し、遠隔でしかコミュニケーションを行なわなくなったら、何が起こるのか?小学校から大学まで、一斉にオンラインに移行したら、どうなるのか?平時なら、政府も企業も教育委員会も、そのような実験を行なうことにはけっして同意しないだろう。だが、今は平時ではないのだ。
 この危機に臨んで、私たちは2つのとりわけ重要な選択を迫られている。第1の選択は、全体主義的監視か、それとも国民の権利拡大か、というもの。第2の選択は、ナショナリズムに基づく孤立か、それともグローバルな団結か、というものだ。

コロナ禍は非常事態であり、人類は選択を迫られている、というようなことをおっしゃっているんだと思います。

もう1つ

世界中で大流行を見せている新型コロナウイルスは、各国の強みや弱みを明らかにしました。フランスの結果は並以下という感じですが、すでにコロナ前からフランス社会は危機的な状況にあったのです。

今は非常事態ではなく、以前から隠れていた状況が明らかになった、加速した、と読みました。私はハラリさんよりトッドさんの説明がしっくりきます。

今後について

ここまできっかけや参考にした記事などを挙げてきて、結論のようなものがありません。39年生きてきて、分断はなくならないと思うし、人が2人いたら多様性もなくならないと思います。その中で、一歩間違えたら生活出来なくなるんじゃないか、という不安は常に襲ってきます。そして時間が経った時に、まぁどうにかなるか、とか、保険入っているし、とか、あの時の方が辛かったんだから頑張れる、と思ったりします。でもこれってコロナ禍以前からあった感情の揺れなんです。


定義づけとなり得るかもしれないと思った記事です。