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劇団ひとりという舞台の客席には彼しかいない

ビートたけしさん原作、劇団ひとりさんが監督、脚本を務める「浅草キッド」が2021年冬に配信されるそうですね。

たけしさんへの憧れを公言しているひとりさんですので期待に胸が膨らみます。小説、俳優、監督、と劇団ひとりという芸人の演芸や文化に対する造詣とマルチプレイヤーっぷりはもはやすっかり浸透しその活躍に私たちは舌を巻くのも忘れて享受してしまっていると感じるほどです。

ただ、こういったある種の文化人的な側面が強まっていくに従いその揺り戻しを試みるかのようにいわゆる芸人っぽい過剰性を要所要所で見せつける二面性も劇団ひとりさんの魅力です。

この出所不明の過剰行為の数々はなかば伝説化されている部分が強く、そしてその過去自ら作ったハードルに自分で挑んでいくかのように観客が忘れた頃を見計らって自殺テロ行為とも呼べる笑いの取り方を敢行します。馬鹿馬鹿しさと狂気が綯交ぜになったそれらのパフォーマンスはもちろん人によっては目を背けたくなる代物だとも思うのですが堂々と繰り広げられる覚悟の決まった破滅行為は半径何メートル以内から観る者を圧倒させ波及させていく事で劇団ひとりという芸人像を強固にしてきていると感じます。

さて、その芸人と文化人との振り子の理論をなんとなく把握した上で劇団ひとりという芸人さんに気になる部分があります。

こないだゴッドタンの「気づいちゃった発表会」を観ていたら梅沢富美男さんについて話題になりました。

ニューヨークが梅沢富美男さんのバラエティスキルの高さを自分達のポジションも含めて自虐気味に話していた時、そこに被せるように劇団ひとりさんがこう言いました。

「あの人、芸人に対してつまんないって言わない」

話の流れ的にそこまでの着眼点に辿り着くスピードのようなものがこの場に置いては早いなと感じたのです。

ざっくりとした感覚ですが、「梅沢富美男」という面白ワードでトークをする時の「実はバラエティスキルが高い」というような運びはお笑い好きなら割とよく聞くものだと思います(オードリー若林さんや伊集院光さんなど)。ただ劇団ひとりさんのようなタイプの人がこういった視点でもう少しだけ突っ込んだ言及をした事が興味深いと思いました。

この後この発言にオチを付けるかのように他の人の名前を出して毒付いて見せたり、そもそもこの話の前に「ゴールデンとゴッドタンで対応が違う」という事を若干いじられていたりする事も含めて、劇団ひとりという芸人さんがこれを言う事に味わい深いものがありました。

というか今までも劇団ひとりという人はこういう繊細な事を言う人だよなという認識が個人的にはあります。ただ本人の意識もあってかあまりそういうキャラクターだと広く捉えられてはいないと思います。


何週間か前になりますが、アメトーークで「生きづらい芸人」という企画が放送されていました。

10年程前にオードリー若林さんがプレゼンした「人見知り芸人」という企画と、ピース又吉さんがプレゼンした「気にしすぎ芸人」という企画を、さらに先鋭化させてレベルアップさせたかのような内容でした。時代も変わりこれらのコミュニケーションの中でのあるあるはスタンダードになっていてもはやカウンターとして機能していない事も含めて面白いなと感じました。

そして、
これらの括りに劇団ひとりという芸人はカテゴライズされるのだろうか?

と思いました。

何となく世間的なパブリックイメージとして、ひとりさんはいわゆる「人見知り芸人」や「気にしすぎ芸人」の立ち位置には居ないと思います。
ただ、上記のようなよく聞くと繊細な発言だったり文化的な表現に取り組む姿勢などはそういうタイプの芸人さんだとカテゴライズされてもおかしくないように感じます。
もちろん要因として年代的なものや、ましてやそれらを帳消しにしてしまうかのような過剰行為も振る舞いとしては行ってきた芸風でもあるので単純に「人見知り芸人」や「気にしすぎ芸人」のそれだとは言い切れないところはあると思います。

しかしそれはお笑い好きの視聴者の捉え方や、同業者のトークの中から漏れ聞こえてくる「実は…」的なエピソードとしても、劇団ひとりさんはその側面の打ち出しが薄いと感じます。例えば爆笑問題の太田さんや有吉弘行さんなどは表面的なキャラクターの裏に実は繊細さがあるというような部分が提供される事が時たまありますが、ひとりさんはそこと比べるとその要素は少ない、もしくは少し入り組んで提供されているので気付かれにくいような気がするのです。

この分かりやすいようで、その凄さの出所が複雑な感じは何なのでしょうか?
今回は劇団ひとりさんのこの表現の動機の正体のようなものについて考えてみたいと思います。あくまで個人的な捉え方のひとつですが、劇団ひとりさんがお好きな方はもしよかったら一緒に思い巡らせれましたら幸いです。


劇団ひとりと自意識

さっそくですが、ひとりさんのその自意識やコミュニケーション方法の複雑さ、実は繊細な部分を端的に表しているエピソードがあります。先日ひとりさんの冠ラジオ番組である「劇団サンバカーニバル」を聴いていた時にそれは披露されていました。鼻毛が出ていたら注意できるか?というバラエティでの定番のトークテーマになった時その切り口と展開のさせ方が劇団ひとりならではだなと思ったのです。

「その時僕がちょっと好意を抱いていた女性とご飯をしてて、ちょっとトイレに行ってパッて鏡を見たら、鼻毛が出ててその鼻毛の先にちっちゃい鼻くそが付いてたのね。」「もう取れないんだよねぇ、そうなっちゃうと。」「それを取っちゃうとこの恥ずかしい事に俺が気づいたのが向こうにバレちゃうと思う事が耐えられなくてぇ!」

この話を聞いた時、これぞ劇団ひとりの繊細さと強がりだと感じました。

「恥ずかしい時にその恥ずかしい事に気付いた俺を見られたくない」

この言葉に劇団ひとりという芸人の魅力が詰まっていると思います。

恥ずかしさと俯瞰

人からどう思われるかという事に対しての繊細さと、そしてその事自体を包み隠そうとするために引き起こる過剰な振る舞いこそが、劇団ひとりのカタルシスとなっていると思います。爆笑問題カーボーイに出演した時のEDを患った話などもその繊細さを象徴しているトークです。

またなぜそのような複雑な繊細さと振る舞いを持ち合わせるようになったのでしょうか?その理由をなんとなく感じ取れるのが、幼少期にアラスカで過ごしていたという生い立ちです。いわゆる帰国子女ですが小学2年生〜5年生までというなんとも微妙な期間ながら肉親以外の同年代コミュニティに参加する事で最小単位の社会的アイデンティティを身に付けていく期間に海外生活をしていたという事実、そしてその後日本に戻ってきて生活をしていったという時系列は確実に人格形成になんらかの影響を与えているように思えます。「海外から日本に帰る事を友達に伝えると冗談だと思われてそのまま別れてしまった」「日本に戻ってから帰国子女だとバレたくなくて英語の発音をわざとカタコトにしていた」この2つのエピソードを聞くだけでひとりさんの他者への接し方や距離感のあり方の繊細さが伺えます。

そういう意味ではひとりさんは今日のいわゆる「人見知り芸人」的な人見知りというマインドや自意識とは少し異なっているのだと思います。日本人的な人見知りではないという感じでしょうか。

人見知りと演技

ひとりさんは人見知り的な自意識を言語化して共感を誘うよりも、振る舞いによってそれを包み隠したり、もしくはそのぎこちなさ自体を含めて他者に提示してコミュニケーションを図ろうとする傾向があると思います。「溶け込むために演ずる」のでなく「演じる事で溶け込もうとする事を演ずる」という感じです。ややこしいですが、結果溶け込めたらどっちでもいいし、悪目立ちしてもその事を提示しているんだという自意識によって保険がかかっているため笑いになりやすかったりします。出発地点がどこかの違いで辿っている道筋は皆と一緒なのです。

なのでひとりさんは上記のアメトーークで言えば人見知り芸人よりも、どちらかと言うと気にしすぎ芸人の分類になると思います。限りなく人見知り芸人寄りの気にしすぎ芸人といった塩梅の立ち位置ではないでしょうか。


ただそれによってひとりさんのそのコミニケーションの取り方にはある種の「わざとらしさ」が常に付き纏ってしまっています。

共同幻想的に規定されてゆくコミュニケーションという反復運動そのものを模範しつつも少しだけズラしている(根っこの部分で「自分はズレている」事を自覚し続ける)事でおかしみを生むひとりさんの自意識と発露はむしろその「わざとらしさ」を飼い慣らす事で場をコントロールしてゆきます。ひいてはそれは「演技力」と言うものに直結してゆく類のものになってゆきます。

ひとりさんの代表ネタの中に「ジャニーズオーディション」というものがあります。この思春期特有の雰囲気の出し方や芸能界に足を踏み入れようとしている人間のリアリティ、「演じる事で溶け込もうとする事を演ずる」というひとりさんの自意識のあり方をさらに客観視してその歪なコミュニケーション体型をキャラクター化し形にしているコントとしての方向性、どれを取ってもそのクオリティはかなりの高水準だと思います。

なのでひとりさんのネタは「人前」に出ている人という設定が多く見られます。まさしく「演じる事で溶け込もうとする事を演ずる」という自意識そのものをコントの登場人物に背負わせておかしみとして打ち出してゆくのです。自我と自意識の狭間で追い詰められた人間から醸し出てくる人間味そのものを残酷なまでに模写する事で観衆を沸かせる極めて密室性の高いストリップショー。その中心で誰よりも冷静なのはひとりさん本人であると思います。

また人前という設定以外だと「独白」という手法をよく使っていると思います。主人公の心の中の声を演じながら喋らせる事でひとり芸でありながらツッコミ的な視点が獲得しやすくなっているのとそれによって状況描写が行いやすくストーリー性も生まれコント世界がより重層的になっていると感じます。そういった表現方法は一人称小説のそれでありベストセラーとなった「陰日向に咲く」に繋がっているのではないでしょうか。


泣き芸と誘発

さらにここから、ひとりさんはバラエティへ進出しタレント化してゆくやり方も「演じる事で溶け込もうとする事を演ずる」という手法を用いたまま成立させてゆきます。

ひとりさんの初期の頃のバラエティでの注目され方は「泣き芸」だったと記憶しています。

バラエティ番組で時たま女性タレントや若手芸人がアクシデント的に泣いてしまう、もしくは高い演技力や過酷なシチュエーションに挑戦するなどして意識的にそれを打ち出す、というパターンは幾度となく目にする機会があります。ひとりさんはそれ自体をやはりパッケージングしてミニコントとして泣く事の着地を目指すのですが、そこにタレントとしての自分のバックボーンやストーリーを即興芸的に組み立てて打ち出してゆくのです。

そして「なんで泣いてるんだよ!」と周囲にツッコミを入れさせます。しかしながらそのツッコミは補足説明的な要素であり劇団ひとりの泣き芸は実は一人で成立しています。当たり前ですがひとりさんは泣き芸だから泣いているのです。「演じる事で溶け込もうとする事を演ずる」事を「溶け込もうとする事を演じる事で溶け込む」というようなややこしさでもって、バラエティのお約束的なゾーンに強引に持っていってるのです。

これはダチョウ倶楽部の上島竜兵さんが団体芸の中で全体のオチとして泣き芸を行ったり、柴田理恵さんがキャラクター的にベタ化させてリアクションの一個として提示しているのとはワケが違います。劇団ひとりさんの泣き芸はあくまで本人がきっかけで始まり、泣いてからのそれに乗せて感情の吐露を行う演技が芸の肝となっています。

感情の吐露をミニコント的なパターンの一個として行う芸は「キレ芸」や「ぼやき芸」「ハイテンション芸」などいろいろありますが、「泣き芸」は泣く事そのものに技術が必要なのとシチュエーションがかなり限定されるため出来る人が限られていると思います。それを自分で筋書きをしながらその沸点に自身を導いてタレントとしての劇団ひとりの自意識を観衆に露呈させているように観せてゆく、この注目のさせ方は「恥ずかしい時にその恥ずかしい事に気付いた俺を見られたくない」というひとりさんの繊細さと強がりがナルシズムとサディスティックさに作用し絶妙な塩梅で混ぜ合わされている彼しか出来ない至芸です。

さらにひとりさんはその泣き芸の方法論をベースに、いじられた時の返しや自虐エピソード、はたまた相手にスポットライトを当てる展開ですら、ミニコント的な即興芸に感情の吐露を乗せて盛り上がりを作るのです。特にそのやり方で池上彰さんとの話と大沢あかねさんイジリは鉄板化しています。フルーツポンチ村上さんとのプロレストークの中での追い詰め方もそういった演技性を遺憾無く発揮し半ば無理矢理村上さんの極めて素に近いギリギリのリアクションを引き出させています。団体芸の中で会話のキャッチボールをしながら全体でミニコントというノリを構築してゆく現代的な雛壇作法とは真逆を行く、自分が中心に躍り出る事で連鎖的に他者の感情を吐露させカオスを仕立て上げるこのやり方は劇団ひとりという芸人のバラエティでの立ち回りとして最適解ではないでしょうか。


劇団ひとりという芸人の自意識

ただ、ここからが重要です。こうしてひとりさんはその繊細さと強がりを自己内外で循環させるように表現に落とし込んで感情の吐露と共にその過剰な演技力やネタや小説で見せた脚本力で視聴者に印象を残し芸能界という場所にタレントとして馴染みました。ですが馴染んでしまうとその印象付いていたわざとらしさやぎこちなさは徐々に受け手は気にならなくなってきます。それに伴いひとりさん側の自意識も観衆と一体化してゆき振る舞いが大人しくなってしまうのです。

これは例えばおぎやはぎやふかわりょう等のシュールや自然体と呼ばれるような芸人さんの方法論とは真逆であり最初から飄々とした態度やポーカーフェイスを貫いていたタイプの方が馴染んでしまってからは幅が広くなるのに対して、鳥居みゆきさんや永野さんのような憑依芸をトークの中にも落とし込むタイプは強烈なインパクトは残れど時間が経つにつれそこからの切り替えが難しくなってくると思います。ひとりさんはそういった憑依芸的なものを常に演じるのではなく要所要所で披露していたためその切り替えはある意味ではバランスが取れているのですが、それが同時にゴールデン番組では大人しくなってしまう要因に繋がっているのだと思います。

もちろん、ひとりさんもその事に関する自覚は感じ取れます。お笑い要素の強い番組では常軌を逸脱していると思われるくらいアグレッシブな芸人魂を見せ

小説、俳優、監督とお笑い以外での演芸、文化的な活動もその表現者としての追求はいわゆる芸人の副業的な枠を最初から超えていると感じます。


そしてそれでいてどちらも劇団ひとりという活動の中に繊細なバランスで両立されています。ですが同時にこの凄さは両極端であるにもかかわらず見事に成立させればさせるほどどこかそれ全体の「わざとらしさ」も感じてしまう不思議さがあります。この天才芸人の繊細な表現の両立自体が誰かのストリップショーを模範している事が恥ずかしさの奥に透けて見えてくるのです。


そうです。ビートたけしです。
ひとりさんは公言をした上で上記のような芸人像を愚直なまでにたけしさんの活動や美学込みで模写する事で表現をしています。

たけしさんが自分自身の存在や芸の追求に対する照れをそのままひとりの人間として生き様に乗せて見せる事で芸人としてのアイデンティティを獲得していったのなら、ひとりさんは自分自身の存在や芸の追求に対する照れをビートたけしが表現した芸人像に乗せて見せる事で芸人としてのアイデンティティを獲得していっています。あまりにも愚直にモノマネをしているのでそれ自体が芸になっているのです。なのでタイプとしてはむしろイッセー尾形さんや清水ミチコさんに近いのではないでしょうか。



川島省吾と劇団ひとり

いかがでしょうか?

劇団ひとりさんの凄さの出所が複雑な感じ、表現の出所の正体のようなものをなんとなくですが感じ取れたと思います。

最後に、そのひとりさんの繊細さと強がりを包み隠そうとする行為がモノマネを超越していってるゴッドタンという地点と共にその魅力を再確認して話して終わりたいと思います。

この番組でのひとりさんはその即興性を主軸になかば伝説化していますが、なぜここまでのパフォーマンスが成立するのかというポイントとしてはおぎやはぎの存在が重要だと感じます。特に小木さんです。小木さんは小木さんのままである事が芸になっている人です。小木のモノマネをしている存在と言ってもいいでしょう。それはひとりさんと真逆の行為です。

ここに対比が生まれます。バナナマン設楽さんは昔クイックジャパンのインタビューで「あの人(小木)は部外者」と語っていました。ゴッドタンにおける神の視点(つまり視聴者の視点の目安、ロンハーだと亮さん)とは小木さんのこの立ち位置にあると思います。

その神と民衆の間を受け持つシャーマンが矢作さんだとするならば、劇団ひとりとは我々と同じ名も無き市井の市民に過ぎないのです。


ひとりさんはキス我慢にしろ泣き芸にしろビートたけしへの憧れにしろの中国人モノマネにしろツッパリヤンキーコントにしろネタの中の千差万別な多種多様なキャラクターの人生にしろ内側から成りきり感情移入しその自我を隅々まで行き渡らせて表現します。しかしそれはどこまでいっても必ず川島省吾が滲み出てきます。我々はその川島省吾を笑っています。誰しもが持っている恥ずかしいという自意識と共に。


劇団ひとりは劇団ひとりでしかなくどの天才とも違う。

ただただ劇団ひとりというジャンルの天才であるだけなのです。



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