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永野と松本人志の共通点

少し前ですがとんねるず石橋貴明さんのYouTubeチャンネル貴ちゃんねるずに永野さんが出演していて話題になっていました。

永野さんと石橋貴明さんと言えばとんねるずのみなさんのおかげでしたの人気企画全落シリーズでの落とし穴に落ちた時のリアクションが本気なのかネタなのかで物議を醸した件が思い出されます。そのどちらとも取れるような塩梅の永野さんの立ち振る舞いを炎上と言えるかまでは微妙なところではあるもののネットを中心に視聴者の反応には賛否があり、そこからしばらく期間を経てからの石橋さんとの共演だったのでその関係性や流れも含めて盛り上がりを見せました。Twitter上や動画のコメント欄などを眺めていくとその事を踏まえた様々な感想で沸いています。

今回はその全落の時の永野さんのリアクションをネタだとあまり捉えていなかった視聴者からの感触が良かったように感じます。何というか「永野ってちゃんと受け身取れるんだ」「お笑いわかってるんだな見直した」「成長したね。こっちの方が面白い」というようなコメントが個人的には目立ったように映りました。

ちなみにですが永野さんは今回の石橋さんとの共演に至るまでに「全落のリアクションを失敗した」という文脈の話し方でそれをエピソードトークとして各所で披露しています。また似たような話としてPON!という番組で松本大志さんという俳優へビンタをした事件もバラエティのプロレスが上手くいかなかった案件として上げられると思います。

さらに細かい所で言えば「さんまの向上委員会でビッグ3の中でタモリを抜いたと発言したら偉い人に怒られた」「ホリプロ時代にさまぁ~ずのライブの手伝いをした時に仲間内の笑いを取るため舞台転換中、暗闇なのをいい事に全裸でセットチェンジをした」「カレーのPRイベントでスポンサー名を思いっきり間違えた」などなど。こういった若気の至りであったりアクシデントであったりする半分炎上気味な話題提供の仕方と、後々にそれを失敗エピソードとして組み立てて披露する自主回収的循環が何回かパターンとして行使しているのが見受けられます。それ自体が確信犯的な行動なのかさておいて、ただ少しだけ感じるのはこれらのそもそもの振る舞いは想像も含まれてしまう部分もあるのですが、現場の空気や視聴者の中でもある特定の層などにはウケているという感触が個人的にはあります。

いつも思うのが、永野さんのこの一連の振る舞いとその流れの至る所をよく観ていくと始まりと終わりでそのパフォーマンスを提供している客層が変わっていってないか?という事です。入り口と出口で人格が変わっているような違和感を覚えるのですがそれは基本的に煙に巻かれていて笑いと反感を綯交ぜにした声ともにかき消され芯の部分は捉えさせてはくれません。今回はこの事について考えていきたいです。永野さんに常に纏われているこの違和感の正体。これを言語化していきたいと思います。もしよかったらお付き合いいただけると幸いです。



永野のネタのおもしろさ

そもそもの永野さんの代表ネタである「ラッセン」ですが、その面白さの立脚部分には批評性を内包した皮肉や裏笑いがかなり含まれていています。

ラッセンというネタの批評性

「ゴッホ(難しい高尚な芸術)より普通に、
ラッセン(分かりやすい絵画商法品)が好っき〜♪」

と大声で叫ぶそのメッセージ性そのものはストレートに捉えようと思うと視座が浅はかに受け取られてしまうように感じられ、かといって一周回った価値基準のコペルニクス的転回だと捉えてみるとそれはそれでお笑いのネタに対してそこまで考えている事を鼻で笑われてしまうかのような人を食ったみたいな態度をした永野さんの顔が浮かんできてしまいます。この批評をしようとした途端にそれが瞬時に自己批評を促させるメビウスの輪のような構造になっているのがこのネタの面白みの特徴です。ですがこのネタの革新的なポイントはそこではありません。

このネタの一番の凄みは
「それを大きな声で語感良く叫んでいる」という点です。

それによってこのネタの批評性自体を表面的にはポップなリズム芸として無理矢理カテゴライズさせているのです。


永野さんの「ラッセン」ネタ以前のコントはその対象への批評性とその視点自体を茶化し気味に台無しにしてゆく皮肉や裏笑いを内包しているという点では大きく変わらないと思います。

ラッセン以前のネタの批評性

「浜辺で九州を一人で守る人」にしろ「スパイダーマンを一度も見た事ないのに物真似する」にしろ「田原俊彦とタイガーウッズの喧嘩」にしろ「沖縄料理を思いっきり否定する人」にしろ「メタリ力のライブに来たメタリカのお母さん」にしろ、その対象や事象への直感であれ分析であれ何らかの批評性を笑いとして組み立てようとした時、そこに具体的なボケツッコミの視点や設定や展開や構成が施されたコントとして演じようと思えば出来るはずだと思います。例えば「浜辺で九州をひたすら守る人」というネタはそこに一点でもツッコミの視点を入れればインパルスが行うような「変わった人が独自ルールで公衆の面前で何かやっているコント」としてもっとオーソドックスな仕上がりにする事は可能だと思います。しかし永野さんはそれをしません。唯一そのような分かりやすい施しを演出として手を加えている箇所があるとしたら、ネタの始まりでそのコントタイトルを言う部分のみです。というか対象や事象への批評性の高まりのMAX値はそのタイトルが放たれた時笑いと共にその時点で終わっています。いわばタイトルオチです。その後はそれをお笑いとして台無しにするかのようにキチンと設定や展開や構成が施されてない(かのように観える)組み立て方でネタを自由奔放に立脚させるのです。

その証拠というか分かりやすくするための比較対象としてハリウッドザコシショウが上げられると思います。

ザコシショウとの違い

ザコシショウさんも永野さんと同じような独創的でオリジナリティの高いネタを自由奔放気味に既存のお笑いルールに囚われず披露するスタイルです。

しかしザコシショウさんが永野さんと違うのはその対象や事象への批評性を捉えやすく「誇張」という施しで演出しているという点です。ようは顔芸や変な声や動きという点で笑わせています。そしてそれ自体を全力で行う事でザコシショウ本人の面白味に変換させているのです。これは切り取り方は独特でありますがアプローチとしてはまだオーソドックスでいわばベタではあります。ベタ過ぎて独創的になっているという状態でしょうか。

それと比べるとやはり永野さんの方がよりベタではありません。ザコシショウさんの行う顔芸や変な声や動きをここまでわかりやすくは行使しません。もっと不気味さや不可解さを強調した顔や動きをしています。なんだったらネタによってはほぼ何も起きないというスカしの極みみたいな事もします。

つまり端的に言えば

ザコシショウさんは
「笑わせようと思ってその手段を選ぶのか」

という面白さで

永野さんは
「お笑いのネタとして笑わせようとしてないだろ」

という面白さ

なわけで、成立を破綻させるにしてもその骨組みに違いがあるのです。

永野さんがR-1の決勝に進出したとしても優勝しない事でウケそうだし、ザコシショウさんが斎藤工さんのハマっている芸人として紹介されたとしてもすべり笑い的なもので処理されそうな気がします。


ブレイク芸人永野という存在自体の批評性

そして、永野さんはその「対象や事象に対する批評性自体をお笑いとして台無しにする組み立て」そのものを、大きな声で語感良く叫び表面的にはポップなリズム芸に仕立て上げます。ザコシショウさんがベタなアプローチで辿り着いている領域に永野さんは2周ぐらい回ったアプローチを施して到達させているのです。もっと言えばラッセンのネタのような複雑な批評性は例えばそういう「高尚な芸術よりも分かりやすい絵画商法品に価値を見出している人」としてコントに仕上げるなどした方が本来の発案の意図が伝わりやすくなると思います(あくまで予想ですが)。それをせずあえてポップな仕上げにしているのが、ラッセン以降の「前すいませんをしてたらイワシになってしまった人」や「熊さん応援大会」や「お猿の呼吸」のネタです。圧倒的にリズムやテンポがキャッチーになりつい口ずさみたくなるようなフレーズが散りばめられしかも観客参加型になっていて何だったら元々の支持層を中心とした批評性は薄まり対象年齢も下がっています。

たしかにこれらはやっている事は変わっていないのですが、ただこれによって実際にポップなリズム芸として大衆的な層に到達し消費される事で、批評性そのもの自体の批評になっているのです。ここがちょっとだけややこしいのでもう少し順を追って説明します。

まず永野さんは「浜辺で九州を一人で守る人」のような批評性をお笑いとして台無しにするアプローチでお笑いマニアを中心にカルト的に人気を博します。

その中で「ゴッホより普通にラッセンが好き」というそれ自体は批評性を帯びた着想を、今までのようにタイトルに組み込んだりダウナーなテンションで演じたりたせずにそれを音楽に乗せ明るく叫ぶリズム芸のように仕立て上げる事で、永野さんの今までのスタイルとしては台無しにさせます。

しかしそれによってポップなリズム芸としてテレビ視聴者などの一般大衆に認識され「前すいませんをしてたらイワシになってしまった人」のようなリズム芸のみで立脚しているかのようなネタでブレイクする事でカルト的な人気を支持していたお笑いマニアの視点的な批評自体を台無しにするアプローチになっている。



というような順序で成り立っているわけです。
「ラッセン」前後で支持層と何を台無しにするかが変わっているのです。そして何より「ラッセン」のネタはそのどちらにも支持されるようなバランスに仕上げられています。このどちらへも批評をしているし批評をされているというメビウスの輪のような二重構造こそが永野さんの説明し難い面白さの核心部分であると感じています。

ラッセン後の永野の振る舞いのおもしろさ

そしてこの「ラッセン」でブレイクした後も永野さんは、批評性を台無しにするアプローチを止める事なく続けていきます。それが冒頭の全落シリーズのリアクションなどの失敗エピソードに繋がっていると思います。この要所要所での振る舞いの数々は100%計算とは言わないまでも、ポップなリズム芸でブレイクした芸人という一般視聴者からの印象という名の批評性を台無しにしていくような布石にも感じられます。

ラッセン以後の永野というスター性

永野さんは一度「ラッセン」でブレイクしてから落ち着いていくまでの過程の中でこういった半分炎上気味な話題提供と共に、別の場面では「実は明るくない」とか「元々はサブカル側の人間」とか「本当はそこまで考えていない天然」といった側面を見せていっています。

最近では斎藤工さんとアングラ感の強い映画を撮ったり、自身のYouTubeチャンネルで好きな音楽をマニアックに語ったり、永野軍団なる若手との交流や地下芸人という文脈を再度強調していくような立ち位置を取ったり、今一度カルト化の道を辿るような歩みを見せています。その際の「ラッセン」のようなカルトとポップどちらへの批評性を台無しにするアプローチになっている接合点は「クワバタオハラ」のネタではないでしょうか?

クワバタオハラへの視座

このネタは構成や設定はシンプルに設計されていて笑いどころも同じ台詞を繰り返すという非常に分かりやすい造りになっているのですが、その中心に鎮座しているのが「クワバタオハラ」という存在に対する物凄い批評性です。もっと言えば関西という地域やそのイメージから来るベタなもの全般に対する偏見を含めた穿った見方そのものを剥き出しにそこに置いています。でもそれ自体を対象に悪意として込めるにしては共感性が少しズレる「クワバタオハラ」という立ち位置の絶妙さは「ラッセン」という人選へのツッコミと同じぐらいの成立のを破綻させる強度を持っていると感じます。それがちょうどカルトとポップ、メジャーとマイナー、アングラとクラシック、というような対なるバランスでお互いを台無しにし合っています。これが一人の人間から生み出されているのを疑ってしまう程そのスタイルやスタンスが違うのですがあまりそれに気付かせない熟練の手捌きは流石の才です。いわばこの転換部分が永野さんの入り口と出口で客層が変わっている瞬間です。


おもしろさと台無しの複雑な二項同体

さてこの辺りで、永野さんに纏われている違和感の正体は言語化が少し出来てきたと思います。お笑いマニアの視点とテレビ視聴者の一般大衆、そのどちらへも批評を生み出している二重構造が原因ではないかと。 しかしながらこの地点に辿り着いた時に沸き起こる新たな疑問があります。それは、ではなぜその二重構造に我々は面白味を感じているのか?という点です。

前述したようにザコシショウさんの場合はその表現方法がシンプルであり破綻している面白さだとしても笑わせるポイントが顔芸なり声なり動きなりと分かりやすく提示されてはいます。ですが永野さんは批評性自体は双方に施されていますが笑わせるポイントとしてはそれらは極めて分かりにくいのに成立しているという点で大きく違います。構造はわかったけどなぜこれでこの建造物は立脚しているのかが解明出来てはいません。極端な事を言えば永野さんがネタでやっている内容は文章にしたり映像にしたりした方が単純にその意図は伝わりやすくなるのだと思います。しかしながらそれが観客の前で披露されて笑い声と共にネタとして成立しているのです。これはどういう事なのでしょう?

この事に思いを巡らせた時あるシーンが浮かび上がってきました。

それは永野さんとダウンタウン松本人志さんとの番組上での絡みです。

松本人志と永野

ダウンタウンなう、ダウンタウンDX、水曜日のダウンタウンなどに永野さんがゲストとして出演した時の松本さんとのトークでお互いの動きが何故か印象に残っています。松本さんは番組でゲストと絡む時やり取りの何ターン目かでその対象への笑いとなるポイントを見つけそこへのツッコミで会話を落とします。いじられ系の芸人さんの見た目や言動だったりタレントの個性やパブリックイメージをフックに今の状況と絡めて大喜利的にコメントを提示したり、松本さんは常に観客や視聴者の予想と期待を裏切り続ける視座を芸としています。

しかしそれがこと永野さんとの絡みになると何というかどこか真正面のツッコミになっていると感じます。もちろんその言葉遣いは捻っていたりあえて異様に持ち上げるコントにしてみたり演出は施されているのですが、その着地が「面白くない」というストレートな物言いになっている事が多く感じられます。また永野さんの方もそれを察してか何となく普段よりもすべり芸的な側面を若干強めに打ち出して自らにそのフリとなるような発言や振る舞いを促進させ全体の流れに乗っかっていくのです。これはとんねるずの全落での本気ともネタとも取れるリアクションやさんまの向上委員会でのタモリを抜いた発言などとは異なった仕様です。永野さん特有の批評性を台無しにさせる運動が影を潜めています。言うならば一番原始的な裏笑いという感じでしょうか。

なぜこのような仕上がりになるのでしょう?

それはダウンタウンの番組のその多くがゴールデンと呼ばれる時間帯に放送されていてその対象となる視聴者層が幅広く設けられているため、そこに通用するある種の分かりやすさを求められるのでそういう成立のさせ方になるのだとは思うのですが、だとしても松本さんの他の後輩芸人との絡み方と比べると永野さんへの接し方は特殊です(例えば似たような絡みとして山崎邦正さんへの突き放し方もありますがあそこまでパターン化されてないし何よりトークの組み立てが永野さんのリアクションを引き出すというより永野さんの投げる球種に対して松本さんが受け止めてコメントしているようなフォーメーションです)。これは何か松本人志さんの方にその要因がある気がします。

松本人志の台無し性

今までの永野さんの芸の構造を見てきて感じ取れたその特性を踏まえて考えると、松本さんのボケ方お笑いとしてのあり方には

「台無し(ボケやオチ)に
批評性(既存のお笑いへの予想と期待を裏切るような視座)を持ち込む」

というような特性を感じられます。つまり批評性を台無しにする永野さんとちょうど逆の運動です。

松本人志のネタとの類似点

ダウンタウンの代表ネタに「クイズ」という漫才があります。

このネタの作り方を松本さんは放送室というラジオで語っています。まずオーソドックスなクイズ番組の司会者と回答者という設定の漫才を考えてからそれをさらにズラす。そうする事で観客の「クイズ番組の漫才」という先入観から来る予想と期待を裏切るためネタが独創的な仕上がりを見せる。といった具合です。これはお笑いのネタという点ではその地盤のルールやフォーマットの上に居ながらそれを最大限に破るという試みです。お笑い自身が自らのお笑いを自己批評しているような状態。

なんとなく永野さんのネタの組み立て方と似てはいやしませんでしょうか?それが批評性からスタートしお笑いという所に落とし込む作業と、お笑いからスタートし批評性に落とし込む作業。発案地点の違いは大きいですがその工程はかなり近いと感じます。

松本さんは「面白さの裏には悲しみがあって、悲しみの裏には面白さがある」と言います。

その視座のひとつの到達点は映画「大日本人」ではないでしょうか。

ネタバレを含んでしまいますがこの映画の主人公大佐藤大は松本さんの自己内省そのものではないかと思えるほど面白さと悲しさが綯交ぜになって表現されていると感じます。そしてそのオチも含めて台無し加減に目が行きますが、その展開構成含めて賛否が巻き起こるような批評性そのものに作品が着地をしているのです。

これ永野さんの「浜辺で九州を一人で守る人」にコンセプトが似ていませんでしょうか?

面白さと悲しさが綯交ぜになっている「変わった人が独自ルールで公衆の面前で何かやっているコント」としてどちらも観る事が出来ると思います。かなり雑な見立てではありますが。そして松本さんはそのお笑い的な方程式を映画という表現媒体で面白さを悲しさに変換(させているような施し)をする事でお笑いそのものに批評性を持ち込む視座を取り入れて作品として提示していて、永野さんは地域の人への偏見や人間の内省そのものに対する観点をお笑いの舞台ネタという媒体で悲しさを面白さに変換(とも取れる衝動的な表現)をする事で批評性そのものにお笑いを持ち込み台無しにする振る舞いを提示しているというやはり真逆の地点から似た作業工程を辿っていると感じます。

また松本さんの映画2作目しんぼるでは、その自己内省と世界の関わりについてかなり飛躍的に設定と解釈が施されこの地点でどこか面白さと悲しさの視座は超越していきます。また1作目と違うのはこの作品は明確なオチによって台無しになるのでは無くそのメッセージ性や映画としての自我立脚そのものに対して抽象性を限界にまで高め観賞後の着地を批評性にセッティングしています。

これもやはり永野さんの「ラッセン」に近い構造と領域展開ではないでしょうか?

ネタの中心にはどちらとも取れる批評性を鎮座させておきながらその周囲は大声で語感良くフレーズを叫ぶポップなリズム芸にコーティングしているためその点に置いては中心は無だけども実際に流行る事で過去の自分自身への視座を台無しにしてしまう。これは自己と世界の関わりを抽象的に描く事で極めて個人的な感覚を映画として如何様に取れるようにしているという点で構造は一緒だと思います。そしてやはりその着地が台無しなのか批評性なのかで異なるわけです。

当時の永野さんのラッセン全盛期としんぼるでの松本さんのラスト手前のシーンは偶発的にですが両者その振る舞いが非常に似ています。

また3作目「さや侍」では野見さんという素人の方を主役に起用にする事よりまた面白さと悲しさの相互関係の話に戻りその上でやや悲しみの方へ比重が増してゆく自己と他者への批評性に着地する点が、永野さんのブレイクにより求められているキャラクターと実際の人間性の乖離により目立ってくる失敗エピソードへの回収と重なってくる部分がありますし

4作目の「R100」でのメタな視点による自己内省とその自己批評に対する決別とも取れるある意味での気持ちの良い開き直りは、ここ最近の永野さんのYouTubeのメンバーシップでネタ動画を公開したりしながらカルト化へ回帰してゆくような手法と同じだと感じます。

これらの類似点は単なる偶発的なものでしょうか?それこそその観点が個人的な視座に留まってしまうのは免れませんが、自己内省と世界の関わりを批評性とそれを台無しにさせる運動に置き換えて表現作品とする道の辿り方は永野さんと松本さんはほとんど一緒と言って差し支えが無いと個人的には感じます。そしてその特性の近い二人がなぜその出発地点やアプローチ、生息地域が現在異なり、そもそもその仕上がりやお笑い界における立場が違って見えるのか?という疑問が浮かびます。その答えはシンプルでやはり松本さんには浜田さんというツッコミの存在が大きいのだと思います。

お笑いと台無し、ツッコミと批評性

松本さんの活動は映画監督やワイドナショーでの発言など単身になった時に賛否が巻き起こりやすくなります。お笑いという台無しに持ち込む批評性は土台であるボケとして放たれているのでツッコミというそれに対するさらなる批評性がセットで提供されているからこそ笑い声とともに分かりやすくパッケージングされているのです。その役割は浜田さんが担っています。浜田さんは浜田さんで観客の代弁者として松本さんの自己内省とは切り離されてそれ以外の世界として虚像化されすぎている側面もあるのですが(つまり浜田さんの存在意義自体がツッコミでありすぎてもはや一般的な視座からはみ出てる瞬間がある)ここではそれを掘り下げずあくまでツッコミという機能のひとつとして捉えます。永野さんにはピン芸人なのでその機能がありません。

永野さん自身にお笑いとしてのツッコミという観点は松本さんのそれより要素として含まれていると感じますが、やはりそれは二面性と呼べるほどまでは深まっていないと思います(ただ永野さんはたまに役割としてツッコミを行った時その間合いやワードは上手いと感じます。「脱力タイムス」「永野と高城」「麗しのコメンテーターに論破されたい」などでのツッコミの永野さんも好きです。ただ視座としてのツッコミの観点までには永野さんは整えていません)。この違いにより永野さんは出発点そのものがお笑いからはみ出て批評性の元に始まるのを余儀なくされていてなおかつバラエティ番組などの大衆的な場面で批評性を台無しにしている存在としてツッコまれる事で成立させているのではないでしょうか。それが永野さんと松本さんの番組での絡みに感じるストレートな裏笑いに繋がっていきます。「批評性を台無しにする」永野さんと「台無しに批評性を持ち込む」松本さんの共通点が両者「裏笑い」という視座になるため引き起こるメビウスの輪現象なのだと思います。

つまり観客である我々は永野さんのこの二重構造を松本さん的な批評性でもって「裏笑い」だと瞬時に判断出来ているわけです。それはもちろん個人差が生まれるため賛否が引き起こります。それはまた松本さんの二重構造を永野さん的な批評性でもって「ストレートな笑い」だと判断しているということでもあります。どちらもある程度お笑いというルールを把握した上での前提条件の元に成り立っている裏切りなわけです。そこに浜田さんというツッコミがいるかどうか。


永野へのツッコミは誰が適切か?

ちなみにですが、永野さんにとっての松本さんにおける浜田さんのようなツッコミの役割は誰が適任か考えてみました。現時点で思い付いたのはバカリズムさんです。

IPPONスカウトという番組で共演していたのを観た時、永野さんの批評性から立ち上がっているけどそれをお笑いとしては台無しにする衝動的なボケ方に対して、バカリズムさんが一言一句丁寧に言語化して説明過剰気味ないじり方をしていてそれによって観客の笑いが増幅していたのです。視座としての相性が良さそうだなと感じました。永野さんの振る舞いには解説が入ると相乗効果が生まれるという分かりやすい組み合わせのひとつだと思います。


さて、今回も長くなってしまいましたがいかがだったでしょうか?

あくまで個人的な捉え方ですが永野さんが常に纏っている違和感の正体となぜその二重構造で成立しているかの理由が少しだけ言語化出来たのかもしれません。


しかしながら

この文章を当の本人の永野さんに読まれたとしたら

「永野より〜普通に〜、松本が好っき〜♪」


と大声で叫ばれて批評を台無しにされそうな気がしてしまいます。


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