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そこにキンコメ高橋への愛憎はあるんか

「キングオブコントの会」という特番が6月12日に放送される事が発表されました。

出演者は松本人志、さまぁ~ず、バナナマンに加え歴代のチャンピオンである東京03、ロバート、バイきんぐ等のメンバーが揃うらしくどんな番組になるのか期待が膨らみます。

そして「初代優勝のバッファロー吾郎は?」「かもめんたるは劇団が忙しいから?」「コロチキにも出てほしかった」など今回出演していない歴代チャンピオンに注目も集まっています。それぞれ事情があるのでしょうがその中でも特に理由が明白でありながら出演していないチャンピオンも話題になっていました。


それは

キングオブコメディです。

キングオブコント2010年王者であるキングオブコメディはメンバーである高橋健一さんが窃盗罪で逮捕された事により2015年に解散しています。なので今回の特番に出演していないのは当然ではあるのですが、それでも当時を思い出し懐かしみそして嘆くような声がSNSを中心にチラホラと上がっていました。

個人的にはそういった声を上げてしまう気持ちはわかるのですが、どこかキングオブコメディもとい特に高橋さんの存在を神格化し過ぎてしまっているようにも正直感じてしまいます。今僕が書いているこの文章こそがキングオブコメディについて記しているものではあるのですが、面白かったという事実はもちろん変わらないであれどその過去の残像に受け手の方が捉われてしまっていてむしろ本当のところのキングオブコメディの面白さの革新性や、逆になぜお笑い界の中でその立ち位置に至り留まりどういった影響力を持っていたのかについてしっかり語られていない気がします。ゴッホが死んでから絵の価値が高騰した事によりゴッホ本来の美術史の中での文脈を把握している人が少なくなってしまっている状態のような感じでしょうか。

また今野浩喜さんの存在への評価もキチンと消化されていない感触があります。

ご本人も自認されているように相方の逮捕という事件のインパクトが大きくその印象のままに俳優活動が軸足のメインに移行したので少しだけ宙ぶらりん感があります。自虐的に「お笑いなのか?俳優なのか?」と語る芸人さんは相方との関係性を込みで話題提供するパターンが多く見受けられる気がしますが(ラーメンズやかもめんたる等)今野さんの場合は解散に至っていてしかもそれが唐突だったので周囲も観客も含めどこか触れられない感があります(というか内容が内容だけに笑いになりにくいからだと思います。)

そしてその触れられない空気によって観客のフラストレーションめいたものが表へ出てこれなくなった高橋さんに対して向けられたため神格化してしまっているという状況のように感じます。評価軸が逆説的に犯罪とお笑いの業の肯定的なニュアンスを直接結びつけて悲劇の主人公として物語化してしまっているようにも感じられます。

たしかにお笑いというジャンルと社会生活の中に置けるマイノリティ的なもの、もしくは個人心理の中に置けるアイデンティティ的なものや生理欲求との折り合いそしてその発露は、完全に分離しきる事は難しくむしろ清濁併せ呑む事で成立させている部分は大きいと思います。

ただだからこそ視聴者や観客、受け手はショーとして提供されているものからしか感想を抱けないため妄信しがちである事を自覚した方がいいとも思います。発し手も100%コントロールは出来ないはずだと思って観なければそもそもそれはショーとして成立していません。穿った観方をし過ぎたりストレートに受け取り過ぎたりそのバランスは難しいところですが、お笑いと宗教の違いは受け手のその感覚がけっこう重要だとも思います。まぁこの考え方も個人のひとつの提供物に過ぎません。


さて、今回はそう言った
お笑いに置ける「業の肯定」と、社会生活に置ける犯罪やマイノリティについて思いを巡らせながらキングオブコメディの面白さとは何だったのか?について考えてみたいと思います。

あくまで個人的な捉え方であるのと、くれぐれも犯罪を肯定するようなニュアンスであるつもりではなく、なおかつ被害者の方を揶揄や嘲笑したいわけではありませんのであしからず。自己判断で読み進め下さいますようよろしくお願い致します。


キングオブコメディのおもしろさ

まずキンコメと言ったら「ネタ」だと思います。

キンコメのコントスタイル

高橋さんの独創的なフレーズを用いるツッコミと、今野さんの突飛だけれども何処かリアリティを感じさせるボケ方で、丁寧なボケツッコミを構築してゆくコントはそのフォーマットのオーソドックスさを含めてクオリティが高かったと評されていたと思います。

キンコメはフォーマットだけで観るとシンプルなボケツッコミの役割が固定されているキャラコントに分類されると思います。しかし双方そこへの肉付けのし方、精度の高め方がセンシティブで突出していたと感じます。

掛け合いで笑いを作っていくとそれはいわゆるしゃべくり漫才のような形式と化してゆきボケがボケのために存在しツッコミもツッコミのために存在するようなファンタジーの世界へと突入しやすくなると思います。受け手も発し手もそれがお笑いのネタとして提示されている事の前提度合いが高まっている感じでしょうか?志村けんのバカ殿様は実際にはいないけどそれが披露されて共同幻想的に大衆でベタなものだと受け止められてお笑いとして成立してゆく。ようは「お約束」的な側面をどこまで許容するのかという話です。キンコメもそのフォーマットに関しては基本的にはベタなスタイルだったと思います。

しかしキンコメはそこへのリアリティの担保をストーリー性を持ち込む事で味付けしてゆくのではなく、そのボケツッコミの掛け合いがギリギリ成立するラインの塩梅にリアリティを持ち込むというアプローチをしていきます。

初期の頃のネタの「天気予報」を観ると特に感じ取れますが、ボケツッコミを掛け合ってゆくというフォーマットに変わりはないまま今野さんは演じ込みが浅く、高橋さんの言葉の捻り具合もそこまで深くはありません。2人の醸し出す異物感(今野さんのビジュアル、高橋さんの滑舌)によって起きる笑いや雰囲気も出来上がっている事も込みでこのバランスを維持したまま今野さんは演じ込みを激しくさせ、高橋さんは言葉をさらに捻っていったという事がわかります。

端的に言えばキングオブコメディというコンビは
リアリティにファンタジー(ボケツッコミ)を持ち込むのでなく
ファンタジーにリアリティを持ち込んでいたと思います。

リアリティにファンタジーを持ち込んでいるコントがバナナマンや東京03のスタイルです。

ファンタジーにリアリティを持ち込んでいるスタイルははラバーガールやおぎやはぎの漫才の成り立たせ方です。

そしてその中でもキンコメは特に掛け合いによるボケツッコミが放たれる理由のような部分に対して丁寧な描写があったと感じます。

キンコメのコントにおけるリアリティ

放送作家のオークラさんは

「ボケている人間が笑かそうとして言っているのか、そのキャラクターが本当に発言しているのかで差が出る。今野って人は舞台に立っている時に本当にああゆう事を言っているんだなと感じさせてくれる」

と評しています。

つまり今野さんのボケの演技にリアリティがあるという事であり、そしてそのアプローチの範囲内で成立させている発言だというロジックがあるという事です。その能力が今の俳優活動でのインパクトの強い役柄を演じながらもそこに何処かリアリティを感じさせてくれる唯一無二のポジション獲得に繋がっています。


またそれを受けての高橋さんのツッコミもその範囲内で成立させるようなラインを保っています。それは時たま披露されるボケツッコミの役割を入れ替えた形式のネタでより分かりやすく確認できると思います。

高橋さんのボケ方にも「本当に言っている感」が感じられます。そのおかしみの方向性が今野さんのそれとは違いますが、静かに狂っている感じが滑舌もあいまって余計に本物感を引き立てています。特に「映画館」というネタのファンタジーとリアリティの塩梅が絶妙で好きです。

これらのコントを観ていくと段々と感じ取れるのが、コントの中でのボケというものの存在意義と置かれている立場です。ボケがボケのままに「本当に言っている感」の精度を高めるには、そのボケを放っている本人がそれをボケだと自覚していないという事が重要です。加えてその上でそれをボケだと認識を強めるためにツッコミという他者がそれに対してリアクションをする事も含めておかしなものであるという視線も作らなければいけません。

すなわちそれは「ヤバい奴」のリアリティという事になります。

「ヤバい奴」という笑い

キングオブコメディはこのポイントの描き方がとても丁寧です。上記したファンタジーにリアリティを持ち込むタイプとしてラバーガールやおぎやはぎはそのリアリティを担保するためにボケのラインが地に足が着いて留まる傾向にあると思います。何というかキャラクターのヤバさ、異常具合の現実味がまだ親近感を覚えます。というかだからこそそのボケ方に妙な奥行きが感じられ味わい深いものになっています。しかしキングオブコメディは2人ともボケる時に完全に向こう側に行ってしまうのです。言ってしまえば街中で奇声を発していたり、一見まともそうなのに会話が成立していなかったり、そういったラインに簡単に到達してしまいます。そしてその上でギリギリリアリティは保っているのです。ここが凄いと思います。

つまりそれは「ヤバい奴」を笑っているという事です。

「ヤバい奴」を笑うということ

かなり雑な言い方で「ヤバい」という言葉を使ってしまっていますが、この言い方が一番伝わりやすいと思うのであえてそう言います。フォーマットがボケツッコミの掛け合いという形式のままその領域で成立するリアリティを展開せせるのでどうしてもそうなってしまうのだと思います。

「ヤバい奴」を「ヤバい奴」として扱うその視点こそがキングオブコメディの作る笑いの根幹には流れていたと感じます。こう表現するとニュアンスが少し難しくもなりますがそれは嘲笑や差別と呼ぶにはストレート過ぎる気がするし、かと言って愛着や安堵の感情によって引き起こっている笑いかと言われると大きく頷きにくくなってしまいます。もちろんお笑いというものがそもそもその視点を等しく保有しているジャンルだとは思いますがその距離感の絶妙さが高橋さんの語彙力と今野さんの演技力に表れていたと感じます。


そしてその視点はもちろん他ならぬ自分自身にも向けられていきます。

「ヤバい奴」を「ヤバい奴」として扱う視点を自分自身にも向ける手法はキンコメのトークによく用いれらいれていたと思います。主に高橋さんはそれを卑屈エピソードや奇人エピソードに凝縮させ、今野さんはボケの角度を不謹慎だったり非常識だったりに施しキャラクターに乗せて放つ事を得意としていました。なのでそこには異常性に対するある種の寛容さがあり、また寛容である事が異常性に繋がっていくという一本の循環があったように感じます。すぐ隣にある狂気とでも言えましょうか。いやもっと日常的なものであって、異常性そのものは実はおかしくも何ともなく、普通である事の方が荒唐無稽であると語らずとも体現している瞬間は多々あったと思います。究極的に言えば「ヤバい奴」という視点は何がどうヤバいのか説明できないからこそ「ヤバい奴」という扱いに留まるからです。

もっと言及すると
「ヤバい奴」は「ヤバい奴」だと自覚していないからこそ「ヤバい奴」なのですが

その自覚をしていない事を自覚しているからこそそれをお笑いのボケとして放ってリアリティの担保と共に「ヤバい奴」としての精度を上げれているわけです。

ちょっとややこしいですが、そこにはギリギリの自覚があるわけで、そういう意味では本当に100%の自覚なき狂人でも無ければ、全てわかっていて完全にコントロール出来ている特殊能力なわけでもないという事になります。それをどのくらいで捉えるのか、これに関してはむしろ受け手の方の責任になると思います。



さてここまで考えてきてみて改めて高橋さんが神格化している件について触れていきたいと思います。

高橋の神格化

高橋さんの生い立ちやまた当時痴漢の冤罪にあっていたりと、その背景や流れを把握している人ほど思い入れと同時に意外性が強まっていてこの事に対してどう捉えていいのか迷ってしまうところがあります。高橋さんのトークの端々にはそういった社会生活に置けるマイノリティ的な要素が散りばめられていたように感じそれに共感した人たちから支持を集めていたとも思います。

しかしその視線は

マイノリティをマイノリティとして扱っている事も意味していて寛容でもあるけれど「ヤバい奴」として笑ってもいます。そしてその事に関しての自覚は内側で観ている人ほど薄くなってしまっているとも感じるます。当事者ではないけれど当事者に近い他人だからです。かといってそれが悪い事なのか?と言われてしまえばそれ以上は何も言えません。ただ他人に対する視線を集めている時はそういう状態であるという事をももクロに没頭しているトークを話していた高橋さんを見るとわかります。

マイノリティそのものや犯罪をおかしてしまった人に対して侮蔑や糾弾を注ぐ事を良しとしているわけでもありません。その視線自体の話です。いわば最小単位の偏見のようなものです。高橋さんを「ヤバい奴」だと扱って笑っている瞬間の我々の視線そのものには自覚がありません。つまり「ヤバい奴」を「ヤバい奴」だと認識して笑っている事のヤバさに「ヤバい奴」は「ヤバい奴」だと認識してはいないという事です。これを突き詰めていくと「ヤバさ」とは何か?という段階に進みます。

「ヤバさ」とは何か?

元々は「良くない」「非常にまずい状態に陥っている」の意。近年では意味が拡大しており、「予想に反して驚き、衝撃を受けてしまった」という際にも使用されるようになってきている。さらには、「衝撃を受けるほどすばらしい」と言う意味でも使われる。起源は「矢場」(江戸時代に的屋が営んでいた射的遊技の的場を指す関東方言)とされる。表向きは遊技場だが、実際には売春の場所だったので「矢場」が危険な場所を表す隠語となり、さらに危険な状況を表す形容詞として「矢場い」が生まれたという。
『隠語輯覧(1915年〈大正4年〉)』によれば、泥棒が刑事のことを「やば」と呼んだ。それの形容詞形が「やばい」である。 Wikipedia「若者言葉」より引用

「ヤバい」の語源は危険な場所を指す「矢場」から来ています。やはり他者や自分の属しているコミュニティとは違うものに対しての視線が前提となっています。表向きは遊技場だが、という部分も重要でしょう。ある種の危険察知能力が集団心理とともに拡大してそして使われやすいライトな意味となった言葉なのだと思います。

ですがその矢場もそもそもは弓を射る所、弓術のけいこ場であって危険な場所を意味していなかったそうです。あるコミュニティがマイノリティを請け負いそのままジャンル化する現象は社会生活の中でよくある事だと思います。高橋さんの神格化もそれと構造は一緒です。

「業の肯定」という業

高橋さんのその類い稀なる大喜利センスやエピソードトークはたしかにめちゃくちゃ面白かったと思います。そしてその提示されるキャラクターや生い立ちはその面白さに拍車をかけさせ受け手を酔狂させる程の強度があったと思います。ただそのマイノリティと面白さは本来別のものでもあります。仮に高橋さんが大喜利センスがなく生い立ちだけ聞かされたら可哀想だなと感じるのみに留まる人は多いでしょうし、逆に大喜利センスそのままで生い立ちが違ったとしたらここまでのタレントとしての支持され方にもなっていなかったと感じます。そしてその受け手の酔狂は高橋さんが犯した罪への依存性と状態だけ見れば近いと感じてしまいます。

これは憶測でものを言ってしまっている部分が大きいですがあえて言うと

それが犯罪だとわかっていたから止められなかったのだと思います。

「ヤバい事」を「ヤバい事」だと認識して遂行してる事のヤバさを認識していない、もしくはそれを押さえきれないほどの依存性があったのではないかと思われます。

お笑いに置ける「業の肯定」はそれらを概念や存在として許容してはいると思うのですが、それが「業」である事を認識していなければそもそも成りたちません。今ある事実が紛れもない現実であり揺るがない事が前提としてあった上での視点であり、それを受け入れられない事も込みで肯定はしているかと思いますが逆を言えば「業」である事の拒否までは出来ません。そういう意味では高橋さんの復活を望む声も、世の中のマイノリティに対する空気も今後どうなるかは分かりませんがそれこそ今ある現実をどう受け入れるかになると個人的には思います。高橋さんを神格化する事は高橋さん本人ではなく高橋健一という芸人が着ていた制服に欲情しているのと図式は一緒ではないでしょうか?



いかがでしたでしょうか?

今回キングオブコメディの面白さについて考えてみる事でお笑いに置ける「業の肯定」や社会生活に置ける犯罪やマイノリティについて何となく思いを巡らせる事が出来たのではないでしょうか?

私たちがお笑い芸人に注ぐ視線と犯罪やマイノリティに注ぐ視線は一体何が違うのでしょう?

私たちが何かを笑う瞬間と何かを可哀想だと思う瞬間は何が違うのでしょう?


さっきから熱狂して大事そうに持っているけれど、それってどこかの誰かが身につけてただけの

ただの布切れじゃね!?


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