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バカリズム松下の世界線

バカリズムさんがMCを務める「もしも師」が放送されて話題になっていますね。

架空の職業になりきってシミュレーションをするという半分だけコントをしているような不思議なフォーマットの企画と、ここら辺の世代の若手芸人にバカリズムさんが司会として絡む事自体のもの珍しさが、何やら新鮮味のある風向きを感じれて面白いなぁと思いました。

そしてこのコンセプトを観た時に思い出したバカリズムさんのネタがあります。


コンビ時代の「影の仕事」というコントです。

実際には無い職業(というか自然事象や機械の仕組みに対してそれらが人為的に行われているのならという想像)を紹介してゆくというショートコント形式のネタです。まず説明無しにその架空の職業のマイムだけを先に見せて、その後から職業名をタネ明かし的に提示する事で笑いに繋がるという大喜利性の高いシステムになっています。発想自体の面白さとその羅列を土台にネタが進行してゆくのでタイトルを後に言う事で興味の引き方を持続させています。そしてそれはもちろんこのネタ全体のコンセプトと職業一個一個の観点と精度の高さによるものなのですが、マイムの上手さとおかしみがフリとしてかなり重要になっています。

バカリズムさんには相方が居ました。もう引退されていますが松下さんという方です。2人でバカリズムというコンビ名でした。この松下さんがコントの中で観せる動きや顔芸の面白さはそれ単体でももっと評価されても良かったのではないかと思われる代物でした。ただバカリズムさん(コンビ時代は個人名表記だったので以後升野さん)の発想の斬新さをボケとしてそのまま濃度を高く受け手に伝えるためにフリ役に徹していたように当時見受けられました。

コンビ時代のバカリズムは「玄人志向」「お笑い好きにはウケるけど一般の人には伝わらない」「頭を使う笑いでテレビ的じゃない」などと長らく評価されていた印象があります。

しかしながら升野さん単体になった今のバカリズムは番組MCを任されるほどにその知名度と実績を積み上げたのはご存知の通りです。つまりバカリズムという芸人はピンになる事で売れたとも言えると思うのですが、ではその要因であるコンビ以前以後の違いは何でしょう?この時よく語られるのが「升野さん単体になってその発想がダイレクトに伝わるようになった」「ピンになる事でその発想を分かりやすく受け手に伝えられる術を身に付けた」という意見です。それはたしかにそうなのだと感じます。ただどうしても松下さんが升野さんの発想を表現するのに邪魔をしていたとは思えません。そこには確かな化学反応とそれによって引き起こる相乗効果があり世界観の構築という部分においてはむしろ松下さんが居た時の方が強固であったという感触のあるコンビ芸がありました。本人達がどう感じていたかは分かりかねますが、発想を中心に据え置いた「シュール」と呼ばれる種類のコントは升野さんと松下さんで若くしてあの時代に完成させていたとは思います。それがタレントとしてメディアで売れるというのとは全然別の次元の話であっただけで、なおかつ今の升野さんが不完全というわけでも勿論ありません。今は追求の形が変わっています。


今回はこのバカリズムの面白さを升野さんだけでなく、松下さんというかつて存在していたポジション込みで考えていきたいと思います。

それによって升野さんを評する時の「発想」「大喜利」「着眼点」というようなネタの脚本についての項目だけではなくお笑いとしてもう少し根幹から捉えて思いを巡らせてみたいと。極めて個人的な解釈ですが試みたいと思います。



バカリズムの笑い

バカリズムの作る笑いは特に初期の頃はですが「シュール」と形容されている事が多かったと記憶しています。

シュールとは?

シュルレアリスムは、戦間期にフランスで起こった作家アンドレ・ブルトンを中心とする文学・芸術運動である。

1924年にブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表し、運動が本格的に始まった。ブルトンはこの宣言でシュルレアリスムを「口頭、記述、その他のあらゆる方法によって、思考の真の動きを表現しようとする純粋な心的オートマティスム。理性による監視をすべて排除し、美的・道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り」と定義した。

一方、フランスのシュルレアリスムが日本において前衛芸術として発展を遂げたのは1930年代以降のことであり、以後、ブルトンが提唱した無意識の探求という本来の目的から離れ、「現実離れした奇抜で幻想的な芸術」という意味で「シュール」という日本独自の概念・表現が生まれることになった。 Wikipedia「シュルレアリスム」より引用

日本の近年のお笑いのシュールという言葉の使われ方は本来の「超現実主義」からは少し離れた捉え方をされていますが、この説明の中でアンドレ・ブルトンが唱えている「先入見から離れた思考の書き取り」という定義からは大方ズレていないと思います。

ブルトンは自動筆記という物凄く早いスピードで思い付いた文字を記述し続ける事で潜在的な意識を表現するところからシュルレアリスムという概念に辿り着いています。

これを聞いて思い出したのは「談志、園鏡、歌謡合戦」です。

この無理問答的な言葉の応酬はブルトンの自動筆記の手法を限り無くお笑いのトークというジャンルに持ち込んでいると感じます。

そしてかなり雑なまとめ方ではあるのですが、それらの言葉のイリュージョンを近代的なメディアで設定されているバラエティ番組の中に置ける「コメント芸」にまとめ上げ全体共有の更新をしたのが、ビートたけしや松本人志、さまぁ~ず大竹なのだと思います。そしてバカリズムのやっている芸はこれらの文脈上に乗っ取った上でさらに分かりやすく大喜利の回答としてパッケージングした事に偉業性があると感じます。

升野さん自体にはビートたけしや松本人志やさまぁ~ず大竹のような生き様や振る舞いやタレント性ごと言語に置いても「コメント芸」の新規軸を時代とともにより広い層に打ち出したというよりも、それらを一旦解体整理して「ネタ」として組み立て直す作業のような事をしているように感じる時があります。

これはシュルレアリスム運動に置けるデペイズマンの技法に近いと思います。そして特に升野さんはその中のルネ・マグリットの立ち位置と重なります。

バカリズムのシュール=マグリット説

マグリットの絵画はシュルレアリスム運動の中でも特に、対象や事象が明確に表現されていてそれが丁寧な描法で筆触をほとんど残さないように仕上げられています。そしてその配置や構図に工夫がありました。なおかつ絵画作品であるにも関わらず作品に言葉を用いて「先入見から離れた思考の書き取り」を表現しようと試みていました。パイプの絵の下に“これはパイプではない”と添えた「イメージの裏切り」という作品の発想立脚はどことなく升野さんの大喜利性のようなものを彷彿とさせていると感じます。

そしてこのマグリットが影響を受けている人物がいます。マックス・エルンストです。ブルトンが文章の中で行っていた事を絵画に持ち込んだ人物です。

エリントスは印刷物の挿絵を切り貼りものを写真に撮りそれを印刷して出版するコラージュという技法を思い付きます。つまりは複製技術によって自らが手を加える事なく作品を産み出しているのです。また木や石など表面に凹凸がある物の上に紙を置き鉛筆で擦るフロッタージュという技法なども編み出しています。これらが松下さんのマイム力と重なるところがあると感じます。

松下=フロッタージュ芸人

松下さんの動きや顔芸の面白さは、何処か完璧には洗練させきらない所に留まろうとしていると感じます。もちろん上手いのですが、それは例えばラーメンズの小林賢太郎さんや吹越満さんのやるパントマイムのような所作のひとつひとつにまで神経を張り巡らせているような一人芸ではありません。だからと言ってバナナマンの日村さんや劇団ひとりさんのように台詞の言い回しやリズム感、または演じ込みの深さによって観衆を惹きつけてゆく即興性の高いパフォーマンスともちょっと違います。さり気ない自然体の上手さではあるのですがずっと常におかしみが醸し出ているような感触です。なので演技やパントマイムだと思って見るより、「リアクション芸」として見た方がその器用さが逆に感じ取りやすくなります。この本人の自意識に手を加えないという意識が複製的な味わいにひと役買っています。

松下さんはコントの中で明確にツッコミ役ではありません。どちらかと言えば視聴者や観客寄りの立ち位置を取ってはいるのですが、そのコントの中の世界の住人として升野さんが提示しているシュールの内側に包まれて存在しています。なので違和感や戸惑いは表明しはするものの最終的な軸足は升野さんに並んだボケる側の範囲に留まっています。イメージとしてはバカリズムワールドと現実世界の境目のギリギリ淵部分に立っている感じ。ちょうど境界上でも外側からの視点でも無い。我々と一番最初に対峙をはかる役割の向こう側の住人です。

つまり升野さんの提示する「先入見から離れた思考の書き取り」をボケとして成立させるために必要に迫られて出来上がっている、自然体なんだけどボケでもツッコミでも無い佇まいが松下さんの演者自我になっています。そのコント世界の中心に鎮座する「先入見から離れた思考の書き取り」に振り回されたり追い詰められたりするけれどそのボケより松下さんが上回って面白くならないような地点に設計されています。あくまで表現されようとしているのはコント世界というボケであり松下さんはパーツの一部分に過ぎません。これはエリントスの編み出したコラージュやフロッタージュなどの複製技術的な表現消化に近いのではないでしょうか。つまり松下さんは、絶対に松下さんじゃなければいけないという訳ではない役割にとても適していました。

これは実は簡単なようでなかなかでいない逸材だと思います。例えばアンジャッシュの児嶋さんとかのくすぐりの演技は近いと思うのですがここまで松下さんのようにボケとしての自我を抜いてはいないし、逆にオードリー春日さんまで行っちゃうと完全なる素の誇張でありリアクション芸(「春日」というキャラが成立したりしなかったりする瞬間に溢れる素をそのまま面白がらせる感じ)になってしまいます。松下さんはコントの中の登場人物として成立するぐらいの素の設定が絶妙だと思います。

エリントスの提示している違和感のフックとなる表現方法のひとつではあるけどそのパーツ自体には「シュール」の震源地は無く、あくまでそのパーツを含めて表現しようとしている作品そのものが「先入見から離れた思考の書き取り」であり松下さんのマイム力もそれと同じ原理だと。そしてその整えられたコント世界の住人としての無意識の地盤の上で升野さんはマグリットよろしくコメント芸を含めた発想の提示を配置や構図や言葉によって丁寧に対象を明確に表現する事でバカリズムは当時の若手お笑い界に一石を投じていた印象です。

いささか「シュール」の話が難解でややこしく捉えてしまっているかもしれませんが、「松下さんの自然体だけど何処かおかしい演技の上で、升野さんが明確に違和感を感じる発想でボケている」という解釈です。



SF的世界観

また視点を少しだけ変えて、ボケや面白さのポイントからコント世界を構築しているという部分だけではなく、世界形成そのものの中に原理や法則が発想的に組み込まれて表現されているという逆側からも考えてみましょう。今までは内在化するものから紐解く試みでしたが今度は外在化するものからです。

コンビ時代のネタにはボケツッコミを明確に分けていないと言えど若干升野さんがツッコミ的な立ち位置になるコントがいくつかありました。その時松下さんは動きを笑いどころとして明確に打ち出すためさらにおかしみが誇張されてはいるのですが、同時にそのコント世界の法則上での振る舞いからは出てこない演技のためその明らかにおかしいマイムごとその世界のリアリティはかなり増しているという捩れのような不思議な状態がよく感じられました。

この風味があった時、何というかSF小説を読んでいるような空想によって別次元に飛ばされていく感覚を覚えるのです。この飛躍の理由として確かとは言い難いですが、升野さんが藤子・F・不二雄の漫画作品が好きだと公言している事に関係がある気がします。

藤子・F・不二雄的SF世界

藤子・F・不二雄さんはSFをサイエンスフィクションでなく、『すこしふしぎ』と言い表していました。それは児童向け漫画のため子供にも分かりやすく伝えるためのフレーズであるためなのでしょうが、物語構築の性質としても科学的な知識を要素として実生活に一滴垂らすかのようにして展開させてゆく『すこしふしぎ』を文字通り体現していたような作品でした。それはやはりバカリズムのコントも他ならぬその手法を取り入れていると感じます。

升野さんが以前好きだと言っていたドラえもんの「あやうし!ライオン仮面」の話はバカリズムのコントとしても成立しそうな設定だと思います。

ただこの藤子・F・不二雄のような風味はどちらかというと升野さんがピンになってから強まったと個人的に感じます。

それはやはり松下さんのリアリティのある佇まいがどこかそのコント世界をより現実に近づけていた上で別次元に飛ばしてためなのだと思います。特に「ワンピース」というコントとコンビネタではないですがPS7というDVDに収録されている「浴びられて」というコントがその方向性の中で好きです。あくまで個人的な感覚でしかないのですがコンビ時代のバカリズムは星新一のショートショートを読んでいるような面白さがありました。こちらもまた科学的な要素をひとつまみ現実世界に持ち込んだフィクションです。しかしその読者対象の年齢と表現形態が小説と漫画という違いがある事により、何というか星新一の方が大人向けの感触があって、社会や人類に対してのうっすらとした批評や思想を表現としては明確に描くというような作風になっていたと感じます。

星新一的SF世界のコンビ時代

星新一の「ねむりウサギ」というショートショートを読んだ時にバカリズムのコントのようだなと感じた事があります。ややネタバレになってしまいますが物語から出てこれない事がボケになってしまう原理は松下さんのそれと重なります。

バカリズムのコントにおいて、やはり松下さんというあくまでその世界からは出てこない、そのフチのギリギリまで近付く事がおかしみのポイントとなり、なおかつその行為によってリアリティを補強するという立ち位置の存在がその味わいやともすれば受け手の消化反応を変えてしまうほど重要だったのだと思わざるを得ません。

またその星新一的なうっすらとした思想の打ち出しはコンビ時代に置いては松下さんを含めた升野さん以外の世界構築の側が担う(もしくは向けられる)事が多かったのだと感じますが、ピンになってからはその矛先は升野さん以外の世界になるので対象と現実の距離は近くなった感があります。

ピン芸人•升野英知

升野さんの毒舌キャラや論理的な物言いはピンになってからより明確になった印象です。コンビの時にもその要素はありましたが、松下さんを含めたその世界が矛先の対象であったためなりは潜めていたのではないでしょうか?「ミタッチ」というシリーズが個人的に好きだったのですが今はたぶん出来ないと思います。あの語らずとも強烈にメッセージ性が勝手に伝わってしまう密室性は味わい深いものがありました。今の升野さんは「ドラえもんが意外と明確に毒を吐くというキャラクターである」という事を理解されている感じに似ています。どちらも密室性は感じますが料理の仕方が変わっているのです。


そしてこの事からわかるように、やはり升野さんの発言を含めたそのボケ方を世界の法則や原理として違和感を少し感じながらも受け入れている我々の存在がたしかにあるわけです。いつのまにか私達は升野さんの提示するその価値観やお笑いに置ける面白さのポイントごと、その発言を含めたボケ方に「正解」であると感じてしまってはいないでしょうか?

もちろん升野さんは面白いです。それは微塵も異論はありません。しかしながらそれを受け手が完璧に受け入れて「正解」であるという空気自体はいつの間に出来上がっていたのでしょう?この世界では一体いつから升野さんは売れていたのでしょう?その世界の淵のギリギリで少しだけ戸惑いながら振り回される松下さんに我々はいつからなってしまっているのでしょう?

内在化する「シュールという思考性」も
外在化する「SF(すこしふしぎ)な世界」も

松下さんが脱退されたと聞いてその世界の住人の外側に出たんだと感じた時から

まるで我々の方がそのコント世界の住人になってしまったような気分なのです。
升野さんの出演している番組を観ていると時たま目にする元相方という触れ込みとモザイク処理を見る度にそれを感じます。松下さんがもっと外に行けば行くほど観ている我々はバカリズムの升野さん以外の存在である世界そのものになってしまう。そんな微量の混乱と一緒にバカリズムの笑いをいつも楽しんでいる自分が居るのです。

元バカリズム•松下敏宏


バカリズムの面白さは升野さんのその「先入見から離れた思考の書き取り」を「SF小説のようなすこしふしぎな世界」でリアリティを持って描いていく事によって浮かび上がってくるものなのだと少しだけ整理出来ました。そしてそれは他ならぬ松下さんというかつて存在していたポジションと共に丁寧にコント世界のリアリティ構築を積み上げられていて、その存在が脱退という形で居なくなってから「升野さん単体になってその発想がダイレクトに伝わるようになった」「ピンになる事でその発想を分かりやすく受け手に伝えられる術を身に付けた」という評価になるわけですが、そこには松下さんという存在があったからこそ整えられていた地盤と世界が「影の仕事」としてあったのではないでしょうか。

最後にその松下さんの現在を少し感じれる情報を添えて終わりにしたいと思います。2019年の8月17日のエレ片のコント太郎にてやついさんが久しぶりに会った松下さんについてトークをしています。

いじりや盛っていいる部分もあるのかもしれませんが、この極めてリアルなイメージが出来る自然体でありながらずっと常におかしみが醸し出ているような感触はやはり松下さんならではで、まるでコントのようです。

我々の存在を含めたこの世界は実はいつも「シュール」で「すこしふしぎ」であるという事を松下さんは客観視させてくれます。

コンビ時代であれ、ピンになってからであれバカリズムのコントを観ると、そのコントが存在しているこの世界自体の捩れみたいなものをいつも感じます。


「シュール」で「すこしふしぎ」なバカリズムが存在しているこの世界に

我々もまた存在しているという事を

「シュール」で「すこしふしぎ」な世界だと感じずにはいられないのです。


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