日没する処のウエストランド
井口さんがジワジワとその面白さを浸透させてきていると感じます。
デドコロというラジオ番組での永野さんとのトークや、マルコポロリという関西のテレビ番組での東野幸治さんからのいじられの求愛、鬼越トマホークやニューヨークのYouTubeチャンネル等での爆笑問題いじり、三四郎からのいぐチンランドネタ、ゴッドタンでの槙尾カリーやあいなぷぅエピソード、そして安定の河本さんのポンコツ感への憤り、こうして適当に並べてみても井口さんって可動範囲が広いなと思います。
この水面下ゾーンでのうっすらとした熱の高まりの正体は何なのでしょうか?
なんと言うか昨今の地下芸人ムーヴや第七世代とその周辺世代の関わりトークともちょっと違うそういったお笑い界の中の事情というよりももっと外的な理由で徐々に徐々に高まっていっている需要に感じます。
いや、さらに言及すればそれ自体がここ最近からなわけでも実はなくて「笑っていいとも」のレギュラーに選ばれていた段階からゆっくりとその潜在的なタレント価値を上げていっているのではないかと思うのです。「売れる」という状態が完全に定義づけれるものでは無い概念であるため中々に難しいのですが、ウエストランドというコンビはかなりずっと前から、爆笑問題の側近的なポジションに5番6番やキリングセンスなどが代表的な形で属さなくなってから、そこに鎮座し続けれているという見方も出来ると思います。シティボーイズにとってのTHEGEESEやラブレターズ的な感じではなく、カンニング竹山さんにとってのひぐちくんや、永野さんにとってのダーヨシさん的な事とはずいぶん最初から違うと感じます。あくまで個人の勝手な捉え方ですが。井口さんって結構最初から井口さんとして完成していたと言いますか。爆笑問題の側近的ポジションにしてその芸風や色味が包括されず分離していると感じるのです。もちろん影響は受けているのでしょうが。
つまり、井口さんの居る地点って、ずっと変わってないと感じるのです。
なのに、なぜ、ここ最近、知名度が上がってきているのか?
それは、井口さんの芸の根幹である「愚痴」というものの性質によるためではないでしょうか。
愚痴というか、元々は「長いツッコミ」を行う漫才師として注目されて、頭角を表してきました。
今はそのテイストを残しつつ、もう少し河本さんとの掛け合いを増やしていたり、もはや井口さんがツッコミの領域を超え何かに怒っている状態そのものをボケとして漫才の軸にしていたりと、そのスタイルはマイナーチェンジを繰り返していますが、基本的には、井口さんの放つツッコミの過剰性をウエストランドの核の面白さとしています。
この、初期の「長いツッコミ」漫才で、まずお笑い好きを中心に認識されだした頃って、ハライチのノリボケ漫才や、オードリーのズレツッコミ漫才など、「漫才のツッコミという役割の前提共有を利用してスライドさせる」という模索が、トレンドとしてあったと思います。
もう少し遡ると、南海キャンディーズや、フットボールアワーなどの、「例えツッコミを前提にしたワードに重きを置いてゆくスタイル」も散見されたかと。もっと遡ってM-1以前だと、やはりダウンタウンや、さまぁ~ずなどの「ある程度ツッコミのキャラに過剰性はありつつも、お笑いのボケの役割やワードの前提共有を利用してスライドさせる」というスタイルが革新性とともに主流になっていたと、ざっくりとした見立てですが個人的には、そう捉えています。
「ボケのワード、役割」
↓
「ツッコミのワード」
↓
「ツッコミの役割」
というような順で、前提共有をスライドさせて、漫才のスタイルというものは進化してきた流れが見えます。
そして、その「漫才のツッコミという役割の前提共有を利用してスライドさせる」という模索がトレンド化した中での極みのようなタイミングで、ウエストランドは出現してきた、という印象です。そういう観点で見ると井口さんは役割として前提共有の範囲でスライドはさせてますが、ツッコミという行為としてはむしろ真っ当していて、そこに特異性があり、あのタイミングだからこそ出てきたんだな、と感じます。ハライチやオードリーと比べてみても「ツッコミ」としてはズレていない事が確認できます。
この事からわかるウエストランドの特異性は、
「ツッコミ」という行為そのものの特異性です。
「ツッコミ」って、そもそもおかしな行為なのです。
ツッコミって、お笑いの中、漫才の中で、常識人の側に立ち、観客の代弁をしている役割なわけですが、それをふと日常会話に落とし込むと、たちまちコミュニケーションとして成立しなくなります。我々には代弁をしてあげる観客がいないからです。もちろん、意図的に「いじる」「いじられる」「スカす」「スベる」など、本来お笑い芸人が隠語として使用していたトークテクニックは視聴者にもとっくに浸透していて、会話術の一環として駆使する事も当たり前過ぎて気付かないレベルで我々は行っているとも思います。ですが、やはり行為としての「ツッコむ」は、それを1人の人間がコミニティ内で常態化させるには、かなり歪なものになるハイリスクな代物だと思います。なぜなら「ボケ」に付随した行為なので、「ツッコミ」だけでは正式に機能しているとは言えず、立場や関係性のある状態で「いじる」はまだ成立しうるも、誰かれ構わずツッコんでいる人は確実に浮いてしまいますし、本人が対象の間違えを指摘しているつもりだとしても、調和を乱す人物として一周回って強烈なボケになってしまいます。これは突き放し過ぎな言い方になっているかもしれませんが、イメージとしては駅前とかで叫んでいるおじさんがそれに当たると思います。酔っ払ってたりするのだと思いますが、大抵何かの不満を大声で口にし、本人としては「ツッコミ」をしています。
言うなれば、井口さんってそういう面白さです。
本人の自我や自意識と、その周囲の認知とに乖離がある状態そのものの面白さ。コミュニケーション不全がウエストランドの面白さとしての核です。よく、お笑いのネタの中だと「ヤバい人」や「変な人」を描く時にコントとして模写したり(志村けん、ロバート)キャラクターとして衣装や発言をそこに寄せたり盛ったり(ハリウッドザコシショウ、フワちゃん)、もしくはエピソードトークとしてそういう人物に対峙したり目撃したりを俯瞰的に語る(千原ジュニア)、つまりツッコミ側に自身を置く、などが通例だと思うのですが、自分の正当性の主張自体をおかしなものとして提示していながら、なおかつボケじゃなくツッコミという役割と行為に留まっている井口さんのトリックスター性は目を見張るものがあります。
自分の正当性の主張自体をおかしなものとして提示するという笑いの取り方を持ちネタとして行っている芸人さんは居ます。ブラマヨ吉田さんやオリラジ中田さん等がそれに当たると思います。「本人が本気でそれを思っている」んだけど「その本気を面白いものとして提示する」という客観性の高い手法。ただやはりこれはボケ役の自我構造に多く見られる(コンビ芸によくある)。井口さんはちゃんとツッコミ役。そこが凄い。
漫才としてツッコミが軸の形状でありながら、例えのワードとかでなく、ツッコミという原始行動のみで磁場を発生させています。「フリ」「コナシ」という要素を持ったコントじゃなくて漫才でそれを行っている事にも驚異性があります。
なのでウエストランドという漫才師は、その井口さんの本来であるならば、おかしなコミュニケーションである「ツッコミ」という行為と役割に留まったままそれを核とし、ワードに重きを置くなどではないやり方で会話のショーを試み続けるので、その相方の河本さんという存在がかなり素の状態であり続ける必要に迫られるのです。
デビューしてまもない昔の漫才を見ると、今よりも河本さんが喋れています。ボケますしいじります。ただ井口さんという主軸の強度を高めてゆくと、ツッコミ役の方にイニシアチブが色濃く宿り、「井口さんのツッコミのために河本さんのボケが存在する」というゾーンにどんどん突入してゆくのです。
つまり「ボケが軽くなる」という状態。しかも、それが「連打する事でグルーヴを生む」ためにツッコミも一緒に軽快になってゆくNON STYLEやアンタッチャブル的な方向ではなく、「ボケのフリ側面が強く」なるためツッコミが重たくなってゆくトータルテンボスや東京ホテイソン的な地点を通りすぎ、「ツッコミの自我にそれ以外が吸収され」てゆくため、河本さんは無になってゆく(河本さんである必要性がどんどん無くなる。井口さんのツッコミが森羅万象に向かってゆくため)という、ほぼ漫才じゃなくなる漫才にたどり着いています。
重ねて言いますが、やはりこれを「ツッコミ役」が成立させているところが凄い。ここまで考えた時、連想するのは、やはりツービートやB&B、紳助竜介などの、「一人が矢継ぎ早に喋って、相方がほぼ頷きに終始している」というTHE MANZAIブームの頃の主流スタイルだと思うのですが、上記の漫才師は全員ボケ役が喋り続けています。井口さんは、どこまでもちゃんとツッコミ役でその基本フォームは一度たりとも崩れていないのです。
もちろん、本質的に河本さんでなくともよい、というわけでもありません。河本さんである必要性は、むしろ河本さんが無であるからこそ機能しています。例えば単純に「ツッコミ」と「ボケ」という組み合わせだけで見れば、ウエストランドのフォーメーションは、オードリーのそれと近いです。
ただ、オードリーの場合は春日さんの「ズレたツッコミ」を訂正するために若林さんがツッコミ役にならざるを得ない、という前提条件が整っているため成立します。要するに春日さんは発注を受けて「ズレたツッコミをするボケ」を提示しているため、操られていると言えるけど無ではありません。
対してウエストランドは「ツッコミそのものの異常性」を面白さとしているため、それを誘発させるためのボケの異常性はむしろ薄い方が際立ってゆきます。ズレてないし操られません。普通です。普通の人です。普通の人というボケ。
河本さんのポンコツエピソードや、ヤバいやついじりって、たしかに目を見張る代物ではあるのですが、どこか普遍性も感じてしまいます。常識的とも言えるというか。変な言い方ですが、「普通にヤバいやつ」とか「ヤバい人として普通」というか。地に足が着いてない事自体が、人間本来の平均値みたいなものを凄く感じます。
井口さんが駅前で叫んでいる人のヤバさ
だとしたら
河本さんは田舎にたくさん居るナチュラルな人なヤバさ
というイメージ。
都会的なヤバさか、地方的なヤバさかに舌触りとして違いがあって、なんだったら河本さんの方が母数としては多い気がします。芸能人の中に入ると変な目立ち方をしがち(もしくはチャンス大城さん辺りと比べられちゃうと全然普通の人になっちゃうくらいの感じ)なのですが、それって素人として量産型、プロのアマ、という状態に意識的な部分があるのでは、と感じます。
「ネタを飛ばす」「遅刻する」「酒癖が悪い」「女癖も悪い」「コンプライアンスを無視する事を面白いと思ってる節がある」「ヤバい奴と思われたくて虚言や奇行をする」「子煩悩、キャンプ好きで、芸人らしくない」
こうして並べてみると、たしかに一般的な芸人像からは逸脱しているのですが、河本さんが「芸人じゃなかったとしたら…?」と想像してみると、あの年代でなおかつ地方出身者だったら、めちゃくちゃ普通の人だろうな…と感じてしまいます。河本さんのポンコツやクズエピソードって、潜在的なマイルドヤンキー属性コミニティの匂いをすごく感じるし、そしてその中に居たとしたらむしろ弱いエピソードだな…と思っちゃう。太田光代社長を酔って襲いかけてしまったというエピソードですら。当然それを「よくある事」的に捉えるべきなわけはありませんが、例えばこれが地方の小さい工場みたいな場所のエピソードだったとしたら出来事としては無数に存在しえるのはイメージがつくし(重ねて言いますがそれ自体をあって普通の事だと捉えるべきとは思っていません)、むしろ、それを周囲の芸人同士で共有して暴露的に人前で話して笑いを取ったり、それにドン引きして(当人達の気持ちを無視して)河本さんを糾弾する事の方が、実は異常です。見ている側が芸能界の空気や内輪の人間関係を過度に把握してしまっている問題もある気がします。
あと、これはちなみに、ちょっと話は逸れますが…
個人的には「いぐちんランド開園」に関しても、今のネット社会での男女間での交流文化を把握してると、ある種の普通性みたいなものを感じてしまいます。
要はこれって、
斎藤さんとかの「ちん凸」みたいなノリ(それを女性YouTuberとかが動画としてモザイクかけて上げちゃう事とかも含めて)を知ってると見え方が若干変わると思います。
もちろんタレントとして、井口さんの脇が甘過ぎるとも思いますが、わざわざ爆笑問題カーボーイで謝罪する必要があったのか?地上波の番組でその話を知ってる大御所に振られて無理矢理話しさせられる程そこまで擦る面白いことなのか?という気はします。(それも含めて面白いんですけど)
井口さんより上の世代の人達が、女性へのデジタルハラスメント的なものや、弱者男性と無敵の人問題、などに関して、あんまり良く分かってないから、むしろ事が大きくなっちゃったし、過剰にずっと面白がられちゃってる、とも感じます。(三四郎が深夜ラジオで面白がってるぐらいが一番面白い状態だったと思います)
皆、井口さんだからいじれる(面白がっていいと思ってしまう)という事象の典型的な例のひとつで
この部分に関しては、河本さんへのヤバい奴いじりと同じような構造になってると感じます。
話を河本さんに戻します。
河本さんのある種の「普通性」。そしてそれをボケ役側に配置して、そこを起点に井口さんが「無」にツッコミを入れている状態を作りだすからこそ、駅前で叫んでいる人のヤバさ的な「異常性」をお笑いとして許させて成立させてる。
という事が認識出来ると思います。
この構造って、それ自体にツッコミを入れようと思うと実は凄い難しくて。油断するとつい、井口さんの尻馬に乗って対象に罵詈雑言を吐いてしまったり、逆に自分が吐かれた側だと捉えて被害者意識を募らせそれに言い返すように誹謗中傷してしまったり、それらはどちらも等しく「井口さんのような過剰なツッコミをしている異常者」になってしまっています。
そして、それらを踏まえて考えることを放棄すると「河本さんのようなボケてる自覚のない普通の人」となり井口さんの滑稽な暴論にヘラヘラと笑う事しか出来なくなってしまいます。
SNSが浸透した事により、誰しもが手軽に愚痴を全世界に共有する事が出来るようになりました。一億総ツッコミ社会の到来の中、群衆は日々 自分の承認欲求を満たしたいがために吊し上げ可能な手軽なツッコミ先を探すと同時に、自分がボケになってしまっているという自覚は抜け落ちてしまっています。井口さんはその群衆の需要に答えているのです。「ツッコんでもいいボケというツッコミ」として。それが井口さんの立ち位置が変わらずとも露出が増えてきている理由なのではないでしょうか。
ウエストランドの漫才を見てる時
反応する人は皆
「ツッコミ」という「ボケ」になり
「ボケ」という「ツッコミ」になってしまいます。
そこには「正義」などありません。
いやむしろ「正義」しかありません。
それぞれの「正義」がそれぞれの「正義」として、ただ無秩序に そこにあるだけ。
ウエストランドの漫才を見ながら
「毒舌漫才面白い」「人を傷付ける笑い面白くない」「お笑い評論家ってたしかにウザいよなぁ」「感想呟こうと思ったけど評論家になりそうで何も言えんわ」「河本またネタ飛んでるんかw」「いぐちんランド開園♪」
などと書かれてるコメントを眺めると
ウエストランドの漫才みたいだなぁ…
と思ってしまいます。
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