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学生生活で読んで良かった小説10選 (前半)

ついこの間、なんとか大学を卒業することができた。

転学部や休学もまじえて、思えば学部に5年も通うことになった。その少なくない歳月は、振り返ってみれば充実していたようであり、なんだか希薄なようでもあり、それでも全体としては悪くないものだったように感じられる。

ここでは、その間に読んだ小説のうち特に印象に残っている10冊を、引用も加えながら紹介してみたい。

【目次】

1.『豊饒の海』三島由紀夫
2.『細雪』谷崎潤一郎
3.『白痴』フョードル・ドストエフスキー
4.『魔の山』トーマス・マン
5.『ペスト』アルベール・カミュ
6.『泥棒日記』ジャン・ジュネ
7.『北回帰線』ヘンリー・ミラー
8.『大洪水』ル・クレジオ
9.『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ
10.『燃え上がる緑の木』大江健三郎

〜〜〜

1.『豊饒の海』三島由紀夫

あの三島が自決前に書いた最大の長編小説。仏教的な輪廻転生がモチーフであり、姿を変えて死と転生を繰り返す美しい青年と、その在りかたを生涯にわたって見届けようとする一人の男の物語。

このダイナミックな小説は、時代の変遷を節目とした『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の全4巻から成っている。

全巻を通じて、とにかく文章が美しい。
もちろん三島が類まれな名文家であることは周知の事実だが、それにもまして、輪廻転生という神秘的な題材がもたらす霊妙さが、筆致のすみずみに特別の輝きを与えている。

美と醜、精神と肉体、現実と虚構といった三島文学の根幹をなすテーマが、この上ない濃密さで描き出された集大成だと感じる。

「見上げる空は雪のせめぎ合う淵のようだった。二人の顔へ雪はじかに当り、口をひらけば口のなかへまで吹き込んだ。こうして埋もれてしまったら、どんなにいいだろう。」


2.『細雪』谷崎潤一郎

昭和初期の京阪神に暮らす三人の姉妹が、舞い込む縁談に思案を巡らせながら、衰退しつつある名家における暮らしを営む様子を、きわめて丹念に描いた物語。

ゆったりとした閑雅な時間感覚の中に季節の移ろいが艶やかに織り込まれる一方で、ときには水害や病や大戦の予兆といった不安な要素が翳りをもたらし、危うさと隣り合って進行する生活の、いわば日本的な儚い美のエッセンスが最良の形で捉えられた作品と言える。

作中では春に京阪神の桜の名所を巡るシーンがあるが、そういえば僕が京都の街に越してきた日もちょうど花見の時期で、下宿のそばの銀閣寺道にみごとな桜並木を眺めたことを覚えている。

そして、いくらか山の方に入ると寺があり、そこの墓地には一本だけ枝垂れ桜にまもられた墓石があったのだが、それは谷崎の墓だと通りすがりの人に教えられた。

ところで僕がもっとも好きなのは蛍狩りの描写。

「………が、その、真の闇になる寸刻前、落ち凹んだ川面から濃い暗黒が這い上がって来つつありながら、まだもやもやと近くの草の揺れ動くけはいが視覚に感じられる時に、遠く、遠く、川のつづく限り、幾筋とない線を引いて両側から入り乱れつつ点滅していた、幽鬼めいた蛍の火は、今も夢の中にまで尾を曳いているようで、眼をつぶってもありありと見える。……」


3.『白痴』フョードル・ドストエフスキー

今で言うところの発達障害をもった純粋で善良な人物であるムイシュキン公爵が、長い療養期間を経て生まれの町であるペテルブルグに戻り、そこで出会った高潔な女性ナスターシャに恋をする物語。

この二人および、同じくナスターシャに想いを寄せる粗野な男ロゴージンの関係を巡って話は展開するが、彼らの切実で痛ましい三角関係には、生きることの真剣さと、人間というものの魅力が溢れている。

ドストエフスキーの長編の中では『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』などに知名度こそ劣るものの、僕の個人的に最も好きな作品。

とくにラストシーンで流れる静謐な暗い時間の感覚は、この作品でこそ味わいうるものだと思う。映画監督のタルコフスキーは著作の中でこの作品のラストシーンに言及して、自然ながらも人間存在の核心に迫るすばらしい場面のひとつであると評していた。

(ところで『白痴』に関する文章は以前にもnoteで書いたので、よければ読んでみてほしい。)

「彼は自分がこの明るい果てしない空の青にむかって両手をさしのばしながら、さめざめと泣いたことを思いだした。彼を苦しめたのは、これらすべてのものにたいして、自分がなんの縁もゆかりもない他人だという考えであった。ずっと昔から――ほんの子供の時分からいつも自分をひきつけているくせに、どうしてもそれに加わることをゆるさないこの饗宴は、このいつ果てるとも知れぬ永遠の大祭は、いったいいかなるものであろうか?」(木村浩訳)


4.『魔の山』トーマス・マン

ドイツ人の青年ハンス・カストルプは病身のいとこヨアヒムを見舞うために、寒冷なスイスの山の上にある療養所を訪れるが、いつしか彼自身も、その地で下界から隔絶されて暮らす人々の仲間入りをする。

多くの見聞を通じて人生に対する思索を深めてゆくハンスの変化を追った、世界的に名高い教養小説の大作である。

この小説では、山上のサナトリウムという特殊な閉鎖的空間が舞台として選ばれており、その地に固有の生活様式もまた特殊なものであるのだが、それにも関わらず、読者は人間というもの一般に関するきわめて深い洞察を得ることができる。

これは、筆者トーマス・マンが並外れた観察眼と理知をもって病める人々の姿を克明に描き出したこと、そして、純粋な好奇心を備えた若い主人公の目線を介することで、「魔の山」の事物が奥行きをもって新鮮に立ち現れてくるということに、その理由の多くを負っているだろう。

「「まず眼を慣らさなくてはね」顧問官が闇の中でこういうのが聞えた。「これから見ようとする物を見るには、まず猫のように大きな瞳をしなければね。あなたもご存じのとおり、昼間の普通の眼で簡単にはっきりと見えるしろものではありませんからな。明るい昼、それに昼のいろいろな華やかな像も、ひとまず心からぬぐい去りませんとな」」(高橋義孝訳)


5.『ペスト』アルベール・カミュ

猖獗をきわめるペストの影響によって封鎖されたアルジェリアの町で、市民は極限的状態に陥り、死と隣り合わせのまま、いつ終わるとも知れない疫病に翻弄されて暮らすようになる。

その中でなおも人間的な尊厳を失わず、他者と繋がりの結ばれた生き方を選ぼうとする医師と、それに感化されてゆく周囲の人々の物語。

近年コロナの流行が始まった時期によく売れたというこの作品は、先述の『魔の山』に共通した閉鎖的な舞台設定を備えており、死と病とが重要なモチーフとして扱われるという点もやはり両者に通じている。

このように、小説の舞台に地理的な境界が定められることで、逆説的に人間世界が凝集した濃密な形で描かれうる、という可能性については先に触れたとおりだが、カミュにおいてはこの姿勢がより前面的に表れているとも言える。

思惟と現実世界のはざまに生の問題を探求したカミュの哲学的関心が、透徹した理性と力強い熱意をもって反映されている。

「このだしぬけの、つなぎ目のない、将来の予想もつかぬ別離にわれわれはただうろたえさせられ、今なおきわめて近く、しかもすでにきわめて遠いその面影の思い出に抗するすべも知らぬ状態で、今やその思い出がわれわれの日々を占領していたのである。事実上、われわれは二重の苦しみをしていた――まず第一にわれわれ自身の苦しみと、それから、息子、妻、恋人など、そこにいない者の身の上に想像される苦しみと。」(宮崎嶺雄訳)

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