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並だが、溢れそう。

 ここのところずっと、なんだか泣きそうである。

 こめかみのあたりを、といっ、と人差し指ででも押されようものなら、それだけで涙が出てしまうという確信があるぐらいには、泣きそうである。

 こんなのは別に平常運転のような気もするので平静を装う。装うが、夜になると無性に散歩したくなる。散歩したい時、僕はヤバい。ということだけは、付き合いが長いのでわかっている。装いは外される。
 しかし、特別に辛いことがあったのかと問われれば、よく、わからない。真摯に考えるのは、いつでも怖い。
 辛いことや悲しいことなんか毎日起こるし、どこででも起きている。だから気にすることはない、と、意図的に目を逸らすことはできても、その能天気さは浸透圧で社会へ流れ出し、すぐに僕のものじゃなくなる。

 アア、なんてこった。
 だからだろう。人はよく、現実と向き合え、と言う。
 向き合ったら解決するのかというと、そうとも限らないだろうが、能天気さはいつでも社会のものなので、だったら向き合った方がマシだというのはわかる。
 わかる。


 空前の映画ブームが来ている。僕の中でだ。日曜に映画を4本見た。その後の平日も毎日1本は見ている。
 「俺こんなに映画見てるんだぜ」自慢ではない。どうせ2、3日後にはパッタリとブームが終わり(予想通り終わりました)、また数週間、あるいは数ヶ月、映画を全く見なくなる。そしてまた数日間で5、6本見るのだ。僕はいつもこういう風にしか映画を見ることができない。そんなのって、自慢できるようなことではない。
 そしてこれについては、現実に何か見たくないものがあるから映画への訴求が高まっている、と解釈することもできる。
 だからなんだよ、とは思う。

 そんなブームのさなか、「わたしは光をにぎっている」を見た。見ていたら、劇中の特別感動的/悲劇的というわけでもないシーンで、わんわん泣いてしまった。
 そこに映っていたのは日常だった。壊されていく日常だった。
 映画が映していたのは、「今あるもの」「なくなってしまったもの」「なくなりそうなもの」だった。
 現実には、「あるもの」と「ないもの」がある。細分化すると、「なくなりそうなもの」「あってほしいもの」「なくなってしまったもの」などになる。

自分は光をにぎつてゐる
今も今とてにぎつてゐる
而もをりをりは考へる
此の掌をあけてみたら
からつぽではあるまいか
からつぽであつたらどうしよう
けれど自分はにぎつてゐる
いよいよしつかり握るのだ
あんな烈しい暴風(あらし)の中で
掴んだひかりだ
はなすものか
どんなことがあつても
おゝ石になれ、拳
此の生きのくるしみ
くるしければくるしいほど
自分は光をにぎりしめる
山村暮鳥「自分は光をにぎつてゐる」

 映像に、山村暮鳥のこの詩が重なって、全き日常だった。壊されていくことも含めて、日常だった。

幸せは途切れながらも続くのです
スピッツ「スピカ」

 日常は壊されながらも続いていくのか。たとえそうだとしても、壊されることは承知せねばならないことなのだろうか。

おまえの中で雨が降れば
僕は傘を閉じて
濡れていけるかな
細野晴臣「恋は桃色」

 濡れていけるかはわからない。いずれにしても、きみの中で雨が降ることは承知せねばならないことなのだろうか。

平和
それは空気のように
あたりまえなものだ
それを願う必要はない
ただそれを呼吸していればいい
(後略、したくないけど)
谷川俊太郎「平和」

 たぶん谷川俊太郎のいう「平和」と一般的にいう「日常」は似ている。僕も同じように捉えている。

 まず「平和」があって、それを壊す「戦争」がある。
 「日常」や「当たり前」があって、それを壊す「何か」がある。

 そういったことが繰り返されると、人々はそうして壊されることの方を「当たり前」だと考え始める。
 当たり前にあったことがなくなるのなんて、「当たり前」だと考え始める。
 どうやって対処しようかと考え始める。

 当たり前だ。
 わかるけれども、何かが溢れそうになっている。当たり前の、並の器ではまかないきれない何かがある。何なのかは、ちょっと見たくない。

 並だが、溢れそうになっている。


 聴き慣れたイントロが心地よく耳を撫でると、エンドロールが流れ始める。抱えきれないものを、それでも抱えようとする時、僕はカネコアヤノが聴きたくなる。やっぱり抱えきれなかったや、と失望した時、坂本慎太郎が聴きたくなる。それらを飲み込んだ後、柴田聡子が聴きたくなる。
 気づくと、またカネコアヤノが聴きたくなっている。溢れないように支えた器には、今日も容赦なく、日常がふりかけられる。
 溢れるのは、日常だろうか、非日常だろうか。いずれにしても、溢れることを許容せねばならないのだろうか。同じことばかり考えている。
 強く握りしめた手は、その形に凝り固まったようにも、ただ開く力を失ったようにも、どちらにも見える。どちらだろうと、手をひらくことはできない。そもそも、その必要はないのだ。

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