【小説】勾配のゆるやかな坂道
アキラは、文庫本のページをめくるみたいに私の髪を触る。ページをめくって目に飛び込んでくる次の一文が、心をおおう膜のようなものを取り払ってくれると信じてるみたいに。
でも、私の髪にそんな力があるわけもなくて、彼に髪を触られると、いつも切なくなる。カラーリングとブリーチで傷んだ私の髪にあるのは枝毛ぐらいのもので、彼の心に触れるにはあまりにも無力だ。いつからか、髪を触るとき、彼は目をつぶるようになった。
目をつぶってたら見えないでしょ。
投げ出したくなって、でも投げ出せなくって、時々、うれしいとか、そろそろ美容院行かなきゃなーとか言うけど、アキラはうん、としか言わない。目はつぶったままで、元々細い目がもっと細くなってる。
髪は女の命だというけど、本当にそうならやりきれない。
✳︎
ナナが香水の香りをプンプンさせながらやってきて、隣の席に座った。美術史の一瀬教授はまだ来ない。
一瀬教授にゾッコンの彼女に「ミナちゃんも一緒に受けない?」と誘われて、もう五回ぐらい講義を受けたけど、教授の良さは全然わからない。
知性のメガネに知性のジャケット、知性のピアスまで身につけてる感じ。真ん中で分けた長い前髪を時々耳にかけるのも鼻につく。
でも女学生にファンは多いようで、一瀬教授の講義は、他の講義に比べて受講者の女性比率が高い。一瀬教授が入ってくると、彼女たちは友人と顔を合わせて教授の尊さを共有する。ナナも私とそうしたいようだけど、私にはその「尊さ」がわからないから、過去の講義のレジュメをパラパラめくる。
ナナの方を見ると、教授の方を見たり、髪型を気にしたり、落ち着かない様子で、かと思えばしゃんと背筋を伸ばして、なんか、犬みたい。良い子にしてても餌はくれないよ、ナナ。
ナナには、3つの人格がある。
その日の予定に合わせた人格と服で、彼女はやってくる。
今日は美術史があるから、恋に恋する乙女のナナ。ベージュのニットに薄いピンクのロングスカート。細い手によく似合うピンキーリング。私の嫌いな、男ウケがいい(ネットにそう書いてあった)という香水。
たぶん明日のナナは、私を「ミナ」と呼んで、明後日のナナは「あんた」と呼ぶ。
私が知ってるナナの人格はこの3つだけど、たぶん他にも人格はあって、私はどれが本当のナナなのかを知らない。どれであっても変わらないかな、とは思う。
「ミナちゃん、今日の一瀬先生はどうだった?」
講義を終えて、食堂で昼食を食べてると、ナナがいつものように聞いてくる。
「いやあ、わからなかったなあ」
「そっか...」
適当に話を合わせたっていいんだけど、ナナみたいには、私の人格はうまく分裂できない。私の分裂はもっと本能的なものだ。私って意外と欲望に忠実なの。意外とってなんだろ。
「アキラくんとはどうなの?」
「どうって、まあ普通」
「順調なんだね」
「順調っていうか、普通」
この場合の「順調」って何なんだろうって、いつも思う。人と人との関係は、上り調子かと思えば急に下ってくもので、なんかジェットコースターみたいなものなんじゃないかな。この先にある急勾配の下り坂へ向けて、順調に上ってるだけなんじゃないかな。それは「順調」なのかな。
午後の講義を終えて、まだ講義のあるナナとは別れた。外に出ると冷たい風が吹いてきて、顔が寒さで硬直する。ここのところまた一段と寒くなってきた。私はすっかり冬気分になって、井上陽水の「氷の世界」をヘビーローテーションしてる。ナナには「あんたそんなもん聞いてたら彼氏に逃げられんで」って言われた。ううん、ナナ。いつか逃げるとしたら、それは私の方だよ。
大学の最寄り駅で学生が一同に電車を降りる風景は、まだ見慣れない。全員同じ目的のはずなのにまとまりがなくて、これじゃあ大きな魚になんか擬態できないと思う。自分より強大な敵に立ち向かう術を、この中の誰ひとり持ってない。黒い服を着てはいるけど、「私が目になるわ!」なんて言えないし。そんなの誰だっていいんだから。
「ナナ」
ベージュのトレンチコートがこの世で一番似合うのは、ナナだと思う。
トレンチコートの日のナナは、なぜかいつも駅前のベンチで私を待ってる。一つも講義が被ってないから、なぜか。昼食も一緒に食べないから、なぜか。声かければいいのにね。
待ってる間ナナは本を読んでて、私が声をかけると顔を上げて微笑んでくれる。
「ミナ、おはよう」
所作の一つ一つが美しくて、うっとりする。ナナは、止まりそうなほどゆるやかな時間の流れの中を生きてるんじゃないかな。
「何読んでたの?」
「冷たい水の中の小さな太陽」
「日本の?」
「ううん、フランスの」
「おもしろいの?」
「ううん、おもしろくはないの。ふふ。でもね、文章が綺麗なの。浸っていたくなっちゃう。もう少し浸ってたら遅刻してたかも。ミナ、いつもありがとう」
一体ナナは、どこまで計算してるんだろう。一体人は、どこまで考えて行動してるんだろう。
このナナなら、一瀬教授だって振り向くと思う。そうしないのは、本当はあいつのことなんかなんとも思ってないからなんじゃないかな。
「今度貸して」
借りるだけ借りて、私はいつも読まずに借りた本を返すけど、ナナは「どうだった?」とか聞いてこないから、ナナには読んでないことはバレてない。たぶん。
学校に着くと、ナナとは別れて3号館に向かった。もうすぐ講義が始まるというのに、教室には学生がほとんどいない。
席に座って、ナナに借りてる『江戸川乱歩傑作選』を開いた。いつも目次だけは見ることにしてる。何の言い訳にもならないのにね。
同じシリーズに『江戸川乱歩名作選』というのがあるらしいけど、ナナは「傑作選」の方が好きなんだって。「傑作」と「名作」の違いってなんだろう...まあいいか。
「あのー、いいですか?」
男子学生が声をかけてきた。茶髪。黒のテロテロのコーチジャケット。ベージュのチノパン。白のスタンスミス。
「どうぞ」
隣の席に座っていいか、ということだと思ってそう答えたけど、違うみたい。見渡すと空席なんていくらでもある。彼は気まずそうに、隣の席に座った。
不思議な声だったな。
近くにいるのに、遠くから呼びかけられてるみたい。彼が発する声の振動は、繊細なガラス細工に触れるときのような慎ましさを持ってる。
教室の後ろの方で、男女グループが昨日の飲み会の話をしてる。参加者はほとんど全員が「死んだ」らしい。甦った彼らは、まだ「死んでる」というユウジを馬鹿にして笑ってる。なんかなあ。サークル仲間、とかなのかな。まあ、何にしたって私には関係がないけど。
隣の彼の視線が気になって横を見たけど、全然見てなかった。
なんだよ。
たまらなくなって隣の男に声をかけたけど、彼はきょとん、としてる。
なんだよ。
そこで教授が入ってきて、教室内の話し声はフェードアウトしていく。ついでに私の勇気もフェードアウト。
隣の彼は、講義が終わっても話しかけてくる様子がない。なるべくゆっくり筆箱にペンをしまったけど、彼は席を立って教室を出て行ってしまった。
なんだったんだよ。
バイト帰りに、駅から家まで歩くのが好き。
閉店時間を過ぎてひと足先に眠りについたアパレル店と、自分の出番だと腕まくりをする居酒屋チェーン店。活気と疲労が不器用に擦れ合って、チラチラ光る。スポットライトほどまばゆくなくて、線香花火ほど不確かじゃない。その曖昧な光の中で歩くのは、昼寝みたいに心地いい。
そうしてるとき、私は体の輪郭がぼやけて、それから液化する。液化した私は、アスファルトを伝って街に染み込んでく。踏み出した足に呼応するように、右耳が、左肩が、街に染み込んでく。だからいつも、真ん中にあるおへそは取り残される。おへそは、兄の後ろに隠れる幼い妹のように、足の後ろに隠れながら恐る恐る、街に手を伸ばす。
そうして街と一体化した私は、いつもより色が濃くなって、輪郭もはっきりしてる気がする。でも誰にも見えてない。いや、誰からでも見えてるのかな。私は街で、街は私で。
サラリーマンの革靴は私の肩を叩いて、学生のスニーカーは私の胸を打つ。街は、ただそこにあるだけで、こんなにも震えてる。
家に着くと、私は元の形を取り戻し始める。それがこわくて、できるだけゆっくり歩く。ずっと夢の中にいたい。それでも、家に帰らないという選択はとらない。夢見がちなだけで、どうしようもなく現実の中を生きてる。
だから私は、液化して、元の形に戻ってを、何度も繰り返してる。そうはいっても、体の一部がマンホールやガードレールに引っかかったり、染み込みすぎたりして、完全には元に戻らない。
たぶん私の右足の親指の爪の先端0.5mmぐらいは、まだ街と同化したままだ。
その0.5mm分は、いつかこの街に住まなくなって、この街を久しぶりに訪れたときになって、やっと私の体に帰ってくる。でもその時の私は、液化を重ねたせいで、今の私とは体のつくりがちがってる。それで、爪ではなくて鼻毛とかが1mmぐらい伸びる。昔なじみの街を訪れたときの懐かしさや違和感は、こうやって生まれるんだと思う。だからこの街もいつか、懐かしくて、なんか違う、街になる。
わずかに欠けた月を見てたら、肉まんが食べたくなって、コンビニで買った。
時々、強烈な食欲に襲われる。
何かの反動でも、怒りでもなく、ただ猛烈にお腹が空く。なんなんだろうこれ。
いつアキラの前でこいつが襲いかかってくるか、びくびくしてる。アキラは別に、そんなことで軽蔑したりしないだろうけど。でも、それは私の知ってるアキラはそう、っていうだけの話。信じてないわけじゃないけど、いや、それが信じてないってことなのかな。私たちは、まだ何も知り合ってない。見たわけでもないのに、そう決まったわけでもないのに、想像で貶すなんて、最低だ。でも、人のことなんて、わかるときが来るのかな。
むしゃくしゃしたから、スイカの早食いみたいに肉まんをむさぼった。三日月型に残った肉まんを月に重ねて、満月をつくろうとしたけど、うまくいかなかった。月は思ってたよりも小さく、遠い。それから肉まんは思ってたよりも大きく、熱い。
「ミナ」
アキラが、シャッターを下ろした喫茶店の前で、煙草を吸いながら立ってた。
「お疲れ様。喉渇いたでしょ?」
彼はそう言いながら、右手でペットボトルをこちらに差し出した。
期待のルーキーに送りバントのサイン。深夜の信号無視への注意。お待たせしましたもねえのかよ、と店員に激昂。
彼の優しさは、私を、そんな場面に遭遇したときのような気持ちにする。
見てたんなら、もう嫌になっちゃうくらい、馬鹿にしてくれたっていいのに。その方が楽なのに。実際、馬鹿みたいだったでしょ?
でも、それが彼の優しさなんだってわかるから、苦しい。彼にとっての優しさが、私にとっても優しさであればいいのに。
「なんでここにいるの?」
「ミナが帰ってくる頃かなと思って。散歩もしたかったしさ」
「そっか。今日は泊まってくの?」
「いいや、このまま帰るよ。明日早いんだ」
アキラはそう言って駅の方へ歩き出した。
彼はいつも、私が見えなくなるまで、振り向いて手を振ってくれるから、角を曲がるまで、私も手を振り返した。
彼は、不確定なことに労力を注げるタイプの人間だ。私が飲み会とかで遅くなってたら? そもそもバイトだっていうのが嘘だったら?
たぶん、私には何も言わずに、そっと家へ帰るんだろうな。
彼は、次の週も私の元にやってきた。
「あの、すみません、ちょっといいですか?」
茶髪。ベージュのプルオーバーのパーカーに、濃紺のジーンズ。白のコンバース。先週と服装は違ったけど、声で彼だとわかった。
なんなの。
「隣ですか? だったら別にいいですけど」
「いや、そうじゃなくて、佐々木さんのことで」
「佐々木さんって、佐々木ナナのこと?」
「はい、佐々木ナナさん」
彼はナナの名前を口に出すのがうれしくてたまらないみたいで、さっきまでこわばってた口元がほころんでる。
その様子を見ておおよその要件を察した。ナナは、ハッとするほどの美人だ。時々、男子学生に声をかけられてるのも知ってる。私がトイレや何かで席を立って戻ってくると、男子学生と話してたりする。話してるっていっても、相手が一方的にって感じだけど。でも私にナナのことを聞いてくるのは初めて。彼らは、ナナと話したいのであって、私にナナのことを聞きたいわけじゃない。どう答えようか考えてると、彼に先を越された。
「美術史でお見かけして、あ、でもそもそもクラスが一緒なんですよ。だから名前は知っていて。佐々木さんってどんな方なんですか? よく一緒にいらっしゃいますよね?」
随分としゃべるじゃない。しゃべれるんじゃない。先週のあの態度はなんだったの? 私も美術史受けてるし、ナナとクラスが一緒だけど、あなたのことはお見かけしたことありません。
ははは、性格わる。...はあ。なんて言えばいいんだろう。
「いい子ですよ」とりあえずそう言った。いい子だし。
彼はうわの空で、教卓の方を、何を見るでもなく見てる。こんな顔だったんだ。中性的で整った顔立ちは、女の子にモテそうだ。
「あの、聞いてます?」
「すみません」目をつぶりながら軽く頭を下げると、彼の長いまつ毛は際立ってみえる。彼は一呼吸おいて続けた。「僕の声って、変なんです」
何を急に。
でも、そんなことない、とは言えなかった。彼の声は、「普通」ではない。
「僕の声は、聞き取れない人がいるんですよ。どんなに大きな声で話しても、近くで話しても、鯉みたいに、口をパクパクしてるだけに見える人が、いるんです。なんか圧ぐらいは感じるらしいんですけど、音には、声にはなってないみたいで。小さい頃からそうなんです」
「はあ」
「信じられないかもしれないけど、本当なんです」
彼は泣きそうな顔で笑って言った。たぶん今の彼だって、ある人には楽しく話してるように見えてるんだろうな。そんなことばっかりだね。
「それじゃあ...。あ、いや、ごめんなさい」
「佐々木さんには、僕の声は届きません。謝らないでください。誰も悪くないんです」
「そんなのって」ない。誰も悪くないなんて、言わないで。
「ないですよね。人生には...あ、恥ずかしいこと言ってもいいですか?」
「どうぞ」
「はは。それじゃあ。人生には、自分にはどうしようもないことが原因でくじけることが、あるじゃないですか。いや、まあ、あると思うんですよ。先天的な、こととか。たとえばそれは病気だったり、容姿だったり、家族だったり、すると思うんですけど。でも、僕の声はそうじゃないって、思いたいんですよね。だって、くじけちゃうから。はは、ばかみたいですね。すみません」
くじけてもいいよ、そんなふうに泣いてしまうんだったら。くじけてしまいそうなぐらいつらいことは、もうくじけてしまった方が、たぶんいい。だって、どうせどうしようもないんだから。もうどうしようもないぐらいくじけてるんだから。くじけてないんだと自分に言い聞かせてるのはしんどいから、くじけた方が楽なことは多い。でもすべてじゃない。だから私は、何も言えない。
「すみません、時間取らせてしまって。あなたが、僕の声を聞き取れる方でよかったです。少し、楽になりました。行きますね」
「え、講義出ないの?」
「僕、この講義取ってないんです。ははは」
彼は、少しも楽になってない、たぶん。
ねえ、「楽になった」なんて無責任な言葉を生み出したのは誰? あなたが彼を強がらせてるのわかってる? ねえ、聞いてる? 聞こえなくたっていいから教えて? 彼が私に声をかけたことは正解だったの?
彼はどんな気持ちで私に声をかけたんだろう。彼には、知らない人に声をかけるのに、他の人にはいらない、もう一つの勇気がいる。これまでにどんな思いをして、その勇気を手に入れたんだろう。
教室のドアを開ける彼の背中はまだ震えてて、教室内の何人かは、それに気づいてる。ねえやさしい人、今だけは彼に声をかけないであげて。あなたは彼の声を聞き取れないかもしれないんだから。やさしさは、時に暴力に姿を変えるんだよ。あなたのせいじゃ、ないかもしれないけど。でも、だからこそ、傷つくんだよ。震えてるのは、寒さのせいなんだよ。
ナナに会いたい。
でももうこれ以上何かを知ってしまうのはこわい。
ダムドのトレーナーにスキニーパンツ。ドクターマーチン。全身黒。ナナがこちらへ向かって歩いてくる。
「うち、むっちゃセブに行きたいねん! ていうか行くわ」
ナナはあいさつ代わりに「うち、むっちゃ〇〇したいねん!」と言う。返事の正解はわからないけど「なんで?」って聞くことにしてる。
「うちの名前、英語でセブンやから」
関西弁の時のナナが一番おもんない。ダジャレしか言わへんし。
なんでナナには彼の声が聞こえないんだろう。彼女の意思があるから、うまくいかなくたって仕方がないけど、聞こえたっていいじゃん。
「しょーもな」
「なんやあんた生理か? あったかくしーや」
「ちゃうわ。うるさいねん」
「エセ関西弁やめや。ホンマ、腹たつわー」
彼女は大阪出身という設定らしいけど、彼女には大阪出身者にある、大阪への矜持がない。大阪出身者は、関西弁じゃなくて大阪弁って言うらしいよ。知らんけど。
「セブの話やねんけど、春休み、行くで」
「そうなんだ」
「そうなんだ、て。あんたもやで」
「え」
「当たり前やん。何が楽しくて一人でセブ行くねん」
「一人で行く人もいると思うし私じゃなくても」
「もう決めてん。予約したしな」
「え」
「あんたさっきからえ、ばっかりやな。絵画か思うわ」
ホンマ、おもんないねん。でもこのときのナナが一番好き。セブには行きたくないけど。でも、行くんだろうな。
ナナはゲラゲラ笑ってる。かと思えば急に真顔になって私の方を見る。なんなのこの子。
「なあ、近代の課題やった?」
「見せへんで」
「なんでや」
「ナナは見してやって言う割に見いひんやん。結局自分で全然違うことやるやん」
「そやけど。パクったらまずいからやん。ええやん見してくれたって。ええやん」
「あんた紳助か」
「ミナ」
また真顔になる。なんなの。ていうか初めて名前呼ばれたかも。
「あんたおもろなったなあ」
「うっさいねん」
「でも関西弁はやめや」
「うっさいねん」
関西弁のナナの日は、お互い午前中しか講義がなくて、終わったら一緒に昼食を食べにいく。なんかむちゃくちゃだけど、ちゃんと友達してるなあ。
その日最後の講義、文学史が終わると必ず、ナナが「うち、むっちゃ〇〇食べたいねん!」って言うから、私はそれに従う。今日も文学史が終わった瞬間に、「うち、むっちゃカツ丼食べたいねん!」ってナナが言ったから、カツ丼を食べにいくことになった。ナナは食べたいものは言うくせに、店の提案は全然しなくて、特にこだわりもない。カツ丼だったら、その時食べたいものの名がつくものなら、なんでもいいんだ。私は気になってたとんかつ屋があったから、そこを提案した。そう言うのはわかってたけど、「決まりやな」って言われた。この「決まりやな」って言うときの、含みを持たせた笑顔が好き。
門を出て、駅へ向かう。春になると美しく花を咲かせる桜並木も、今はずいぶんと寒そう。
「なんか、人がまばらで星空みたいだね」
「口説かれとるんか? ごめんな」
「振られた...」
「ごめんて。星空のディスタンスやんな」
「何言ってんの」
「ホンマこいつ」
関西弁のナナと話してると、気持ちが大きくなる。思ったことを言ってくれるから、私もそうする。それが、すごく楽。傷つけてるかもしれないとは、時々思う。
目的の店に着いて、扉を開ける。
「とんかつ屋ってなんで引き戸が多いんだろ」
「知らん」
「いらっしゃいませー! 二名様ですね?」
「はい」
「ていうかここ蕎麦屋やん!」
「うん」
「ホンマ適当やな」
「ナナに言われたないわ」
カツ丼を二つ頼んだ。私は大盛り。お腹空いててん。いつもは並盛りやで、店員さん。
「ナナって彼氏いるの?」
「なんや急に」
「いいから答えなさい」
「おるわけないやろ、うちみたいなもんに。こんなんに付き合うてくれんのなんかあんたぐらいやで」
「そんなことないって」
「そんなことあんねん。知っとるやろ。それよりな、あんた、しゃんとせなあかんで。あんたはしゃんと生きなあかん」
「おかんか」
「ええから聞きや。うち...あんたのことむっちゃ好きや。でもな、せやからな、しゃんと生きなあかん」
「口説かれとるん?」
「ミナ。お願い、聞いて?」
ナナ、トレンチコート着てないよ。このナナに言われると、平伏してしまう。
「あんたは、うちみたいなもん寄生させとったらあかん。ぎょうさん、寄ってくるやろけど。いろんなもん許容できる人がな、いろんなもん背負う必要なんかないねん。ミナ、わかったか?」
急にどうしたの。何言ってんの。
「うちはこんなんやんか。もうぐちゃぐちゃや。こじれにこじれて、もうようわからん。でもな、あんたもいろいろあるやろしな、うちのことまで背負わんでええねんで」
「じゃあセブは? 行かないの?」
「なんでそうなんねん。行くに決まっとるやろ、アホか」
「...離れろみたいに言うから」
「なに泣いとんねん。そない行きたかったんかいな」
「...ちゃうわ。アホか」
「うち、アホやねん」
「アホじゃない」
「この世の中な、アホな奴が賢くみえてな、賢い奴がアホにみえんねん。なーんも考えてへん奴が悟った顔してな、よう考えとる奴がいっぱいいっぱいでまぬけ面なんねん。うちは他のことなんもわからんけどな、これだけはわかる。あんたとうちとは違う人間や」
そんなの当たり前だ。人と人とは違う。違うから、一緒にいるんじゃないの? わからないから、一緒にいるんじゃないの?
「勝手に離れようとしないで」
「離れようとなんかしてへん。うちはどこにも行かへんよ。ていうか行けへんからこうなってんねん。...でも、あんたはしゃんと歩いていかなあかんで。あんたはどこにでも行けんねんから」
「やっぱりアホや。ナナはアホや」
なんで人は、他人のためって言いながら、自分を苦しめるようなことするんだろ。そんなの、誰のためにもならないのに。
「ナナ、私決めた。私は歩く。まっすぐ、かはわからないけど歩くよ」
「ええやん」
「ええやんって。ナナもだからね」
「え。...あんたのせいでうちまで絵画になってしもたわ」
おもんないねん。引っ張ってでも、引きずり回してでも歩かせてやる。セブに付いて行ってあげるんだから、それぐらい言うこと聞いてよ。
「あのー、お話中すみません。カツ丼出してもいいですか?」
「ええで。あんた、後悔しても知らんで」
「え」
「兄ちゃんちゃうわ。あれ、兄ちゃんどっかで会ったことあるやんな?」
「なにナンパしてんの。困ってるでしょ?」
え、うそ。
「ちゃうわ。あれ、どこで会ったんやろ。兄ちゃん覚えてへん?」
「いやー、どうでしょう」
彼はまた、泣きそうな顔で笑ってる。
「あれー、勘違いかいな」
「ナナ、声聞こえんの?」
「は? 何アホなこと言うとんねん。当たり前やん」
ナナは首を傾げながら、「あれー?」と「どこでやろー?」を繰り返し呟いてる。
アホ。人の気持ちも知らないで。
ねえ。あなたが前に声をかけたのは、どのナナなの? あなたはどこまで知っててナナに近づこうとしたの? 今あなたの声が聞こえても、いずれ聞こえなくなることはあるの? あなたに落ち着けるときはくるの?
彼に聞きたいことは山ほどあるけど、そのどれもが、聞けないことだ。
「ここ、ええ店やな。あんた、やるな」
カツ丼を頬張りながら、ナナが言う。確かに、すごく美味しい。
「ナナそれ吉野家でも言うじゃん」
「吉野家もええ店やん。失礼やで」
それはそうだな。ごめんなさい、吉野家。いつも安くて早くて美味い、をありがとう。
「あーバイト行きたくないなー」
「なんやあんた大学生っぽいこと言うな」
「大学生なんだって」
「えええ!そやったんか!」
「どこでそのテンション拾ってきたのよ、持ち主に返してきなさい」
「ツー」
「しょーもな」
ああもう、何も考えずに、ただこのときがずっと続いてくれればいいのに。でも私たちは、もうすぐ大人になる。
大人になると、時間の流れ方が変わるって、中学の先生が言ってた。名前、なんだったかな。先生はどういうふうに変わるのかは教えてくれなかったけど、とにかく、このままではいられないってことだ。
私の決意とは裏腹に、ナナとの日々の終わりは、もう、すぐそこまで迫ってきてるのかもしれない。私はどうして、終わりのことばかり考えてしまうんだろう。今ここにあるものを、私はあまり大切にできない。強い流れで襲いかかってくるものがあると、そっちにとらわれてしまう。大切にするべきものは、大切にしたいものは、他にあるのに。
小さい頃は、早く大人になりたいって、思ってたな。
帰り道、雨に降られた。ナナに借りた本、濡れなくてよかった。
体が嘘みたいにぶるぶる震えてる。なんか、笑えてくる。ああもうお風呂入ろ。
ナナは思ってたよりも、揺らぎながら生きてる。人格を分裂させて生活するなんて、そんな面倒くさいことをするのは、ナナが強いからだって思ってた。でも、そんなことないんだ。彼女はきっと、傷つくリスクを減らしてるんだ。本当に強いのは、面倒くさいことから逃げられる人。自分が一番不幸みたいな顔して平気で人を傷つける、私みたいな人だ。ナナは、どこに行ってしまうんだろう。
ねえ、これはくじけていいこと?
きっと違うよね。だってこれは私の問題だから。私がそうしてるんだから。
髪を乾かそうと鏡台の前に立つと、濡れた髪が黒く光ってるのが、よく見えた。濡れた本は、乾かしてもページが張り付いたままだったりするけど、私の髪は、乾かせば一本一本の髪の毛にばらける。
私は今、上っても下ってもいない。でもたぶん坂道を歩いてる。このまま歩き続けてたら、いつの間にか、とんでもない高度に立ってるかもしれない。前も後ろも、上も下も、こわくて見れない。どこへたどり着くのかわからないけど、それが私の、私と誰かとの、着地点だ。変えたいなら、周りを見渡さなきゃいけないんだね。ナナに言われたのは、そういうこと?
アキラが忘れていった煙草の真っ赤な一つ目が、机の上でこっちを見てる気がして、慌てて手に取った。それをくわえて、舌で軽くなぞると、紙のほのかな甘みが口に広がった。それから、タバコ葉の巻きつくような香りが鼻をつく。
彼はいつか、「これは縁起のいい煙草なんだ」と言ってたけど、調べてみたら、巷では「天国に一番近い煙草」と呼ばれてるらしい。
ライターを手に取って、カチカチ鳴らす。うまく火がつかず何度もカチカチしてたら、突然ボォッ、と火がついた。情けない声が出て、恥ずかしくて、魔女みたいに高笑いした。
初めて吸う煙草はもっとキツくて、むせるもんだと思ってたけど、肺は簡単にそれを受け入れた。煙草を吸う彼の隣に、ずっといたからかもしれない。
彼はいつも、すがるように口を尖らせて、すぅーっと小さい音を立てながら煙を吐く。煙草を吸ってる間はずっと、煙草から立ち上る煙を、目で追いかけてる。彼はそのとき、何を、思ってるんだろう。
彼と同じように煙の行く先を見てみたけど、煙は、天井の近くで溶けて、見えなくなった。
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