見出し画像

影武者の冷やし油そば

人類の進歩は非常に興味深い。
そして人類の進歩を実感するときというのは、ラーメン屋のメニューが増えたときだ。

小学生の頃、秋葉原の中央通りを歩いていたら、「今週オープンしました、日本一マズいラーメン屋です」という呼び込みにつられ、親父の手を引っ張って入ったのが、オープンしたてのじゃんがらラーメンだった。

「日本一マズいラーメン」とは、よく言ったものだ。昭和のあの時代は、そういうカウンターコンテキストマーケティングが珍しかった。期待値を限界まで下げて置くことで「え、不味くないじゃん・・・っていうか、いけるじゃん」という台詞を引き出されて、ラーメンはすごいと思った。親父によく連れて行かれた神田の藪よりもじゃんがらが好きだった。

大学に入って上京して、調布の駅前にあるラーメンそらまめで、初めて太肉麺を食べた。駅の反対側の喜多方ラーメンを食べてチャーシューとスープに感動した。世の中にはこんなにうまい物があるのかと。秋葉原の万世で、パーコー麺というものにも出会った。揚げた薄い豚肉が乗ったラーメンだ。パーコーという、こんなに美味い物があるのかと驚いた。

大学生というのは、思えば恵まれた時代だ。親からもらった小遣いと、バイトで稼いで初めて自由になった金で、好きなものが食える。その度に初めて食う食べ物に感動し、燃え上がり、また何か知らない食べ物を探究する、そんな人生の探求期だ。

中学の先輩に誘われて、中野の大勝軒で初めてつけ麺を食べて感動した。蕎麦のように、つけ汁にラーメンを浸けて食べる。なんという斬新な料理なのだと思った。

ある夏の暑い日、俺はフラフラになりながら夕飯に何を食べるか考えていて、調布の駅前を素通りしてしまった。マクドナルドも太肉麺も、その日の気分じゃなかった。ついに駅の反対側まで行ってしまって、チャーシューメンは食えないなと思いながら喜多方ラーメン坂内を見たら、「和風冷やしラーメン」という見たこともないメニューが出ていた。俺は衝撃を受けた。実は冷やし中華は苦手だ。うちの婆さんが酢をガンガンに入れるので、酸っぱい味しか思い出せないからだ。

しかし冷やしラーメンとな。それはどんな物なのか。暑い夏の日に挑戦したいと思えたわけだ。

それはそれは美味かった。カツオだしの効いたスープに、ワサビとチャーシューが絶妙なアクセントになっていた。こんなに美味いものがあり得るのかと感動した。

学生の頃の記憶というのは、かくも鮮明に覚えているものである。

それから、時間がずいぶん経ってから、秋葉原の電気街にある麺屋武蔵厳虎のつけ麺もインパクトが強かった。六厘舎系ではあるけれど、麺が独特でハマった。

それから神田のななつぼしで台湾まぜそばを初めて食べた。正確には台湾まぜそばZ。やばい美味さだった。

それから、神保町のかつぎやの汁なし坦々麺にもハマった。いや、赤坂の希須林の方が先だったかな。とにかく坦々麺というものがここまで美味いものになるのかと唸った。感動した。

ラーメンは進化する。いつだって時代の先端を取り入れて千変万化する。

先日、秋葉原の街を歩いていると、野郎ラーメンやとにかくいろんな店で「冷やし油そば」とか「冷やしまぜそば」という、見たこともない新メニューが並んでいた。よくみるとここ数年の定番らしい。

最近は真夏のような暑さが続いていて、何か変わった冷たいものが食べたくなった俺は、影武者に入ってみた。

スクリーンショット 2021-06-29 7.35.16

「ニンニク入れますか?」

「あ、はい」

と答えてから、間違った答えをしたことに気がついた。

「油と野菜はどうしますか?」

ああそうだった。こういう系統のお店は、「ニンニク入れますか」が、通常の日本語とは違う符牒なのだった。

「普通でお願いします」というのが精一杯だ。

確かに冷たい。しかし完璧に油そばだった。

そしてモヤシとキャベツを、タレに絡めて食べると「これはむしろ健康食品なのでは」というおそらくかなり間違った解釈をしてしまうくらい、野菜だった。美味い野菜だ。

しかしこういう爆食系のものは完食するのが難しい。

意外な難敵はチャーシューだった。

仕方ないのでチャーシューは残した。ごめん。油とか野菜とかの前にチャーシューどうするか聞いて欲しかった。

そして人類はまた一歩、進歩した。冷やし油そばというジャンルの発明によって。

多分この先、AIがもっと新しいラーメンを作るだろう。いや、むしろAIが新しいラーメンを作るか、それとも人間がさらに新しいラーメンを作るか、しばらくしたらその戦いが勃発し、結局人間が勝つのではないか。

なぜならば、AIは人間のように生きることができないからだ。

AIはどこまで行っても人間ではないので、学生の頃の感動や、物珍しいという感情を持つことができない。

それがなんていうか、GPT-3と触れ合っていて感じる複雑な感情と符合する気がしてしまうのである。