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台湾、ビールしかないから俺には住みにくいが健康にはいいかもしれん。フィクションはくだらないのか?

台湾に来ている。
機内でVIsionProをつけながら26世紀青年を見た。金曜日のイベントのための準備である。我ながら真面目だ。

国内であらかじめVisionProにダウンロードしておき、機内で見た。
こういう使い方に、VisionProほど向いてる機械はない。

これ、例の本で落合くんと暦本先生が「AIが発達したら人間はどんどん馬鹿になって行ってこうなる」というディストピアを描いたコメディ映画なんだけど、今蓋を開けてみると実際問題、こんな感じになってるところが意外と笑えない。

つまり、IQ(という指標が知性を測る上で正しいかはともかく)が高い人はどんどん少なくなり、IQが低い人はどんどん増える、という前提で社会設計をすると、これはとりもなおさず富の90%以上を人口の上位20%が独占する今のシリコンバレーの状況に近い。

もう少し厳密に調査すれば、富の50%以上を人口の上位2%くらいが独占していてもおかしくない(調査したことないからわからんが)。

ただ、富を持っている人が必ずしも高いIQを持っているか、それゆえに計画的に子供を作らないかというのはあまり一致してないと思っていて、イーロン・マスクもドナルド・トランプもまあまあヤバい感じで子供を作ってる気がする。

逆に富が少ないと子供を作って育てるのにも限界があり、IQが必ず遺伝するというわけではない(むしろIQは遺伝子よりも環境に大きく影響を受けるのではないかと個人的には考えている)。

逆に言うと、富の不均衡、そして時々自然発生的にうまれる「そんなに賢くない金持ちのドラ息子/バカ令嬢」は、むしろIQ至上主義(なんてものは存在しないが、26世紀青年ではそういう前提になっている)に対する防御策なのではないかと思えてしまう。

IQが実際にどんな能力を測るか、たとえばAIで考えてみる。
現在のところ、ほとんどのAIの訓練は、遺伝子に影響を受けない。受けたとしても限定的だ。僕自身は遺伝的アルゴリズムによるニューラルネットワーク設計をやったことがあるし、実際に遺伝的アルゴリズムはニューラルネットワークの性能を上げるのに有効であることも確認したので知っている。が、ここには環境負荷は考慮に入れてない。

遺伝的アルゴリズムの話は一旦置いておいて、まずシンプルなAIについて考える。

シンプルなAIの性能を決定づけるのは、アーキテクチャも大事だが、どう考えてもデータセットである。

一定以上の複雑性を学習可能なニューラルネットのアーキテクチャ(たとえばTransformerやRWKV)の性能差は、「どんなデータを学習したか」によって生まれる。

最近の研究では(まあといってもどれが最近で最新で確からしいのかは確かめようがないのだが)、どんなに賢いAIでも、ある程度の規模になると、全く同じデータを学習に使っていいのは3,4回だと言われている(昔は100回でも1000回でもやればやるほど性能が上がった)。

そして、そのデータを学習する際に、「馬鹿なデータ」「いい加減なデータ」を使ってしまうと如実に頭が悪くなる。嘘を学習しているのだから当然だ。それを見越して、逆に「これはダメなデータだよ」という注釈付きで学習させたりすると逆に良質なデータになったりする。

AIにとっては学習に使うデータが「環境」そのものと言える。

昔は「テレビばかり見てると馬鹿になる」と心配された時代もあれば、「ゲームばかりやってると馬鹿になる」と心配された時代もある。もっと遡ると、「小説なんか読んでるやつは馬鹿だ」という時代もあったらしい。

なぜそういう心配が起きるかと言うと、現実世界とは違う、切り離された、または誇張された表現だけを摂取するのは「環境」としてバイアスがかかるからだ。

ところがエンターテインメントというのは、その「バイアス」こそが旨味であり、エンターテインメントを全く知らない人、全く消費しない人というのはそれはそれでつまらないのではないかと思う。

僕は自分がそう望んでいたわけではないが、エンターテインメントとサイエンスとテクノロジーを全体的に追いかけてきた。そういう人生を選択してしまった。つまり、ゲームであり、映画であり、ソフトウェア開発であり、ハードウェア開発だ。

僕にとってのハードウェアは、エンターテインメントを生み出す道具である。エンターテインメントが目的であって、そのためにハードを作ることもある。ウォルト・ディズニーだってアニメ制作専用の写真機や治具をいくつも作っていた発明家でもあった。

なぜエンターテインメントは素晴らしいのか。人々の想像力を拡張するからだ。その点ではAIと映画はほとんど変わらない。AIよりもよくできた映画のほうが人々の想像力をより拡張することができるケースが多いとすら言えると思う。

では、素晴らしいエンターテインメントはどのようにして生まれるのか。

子供の頃、ときどき「フィクションは嘘だからくだらない」と断じる人と出会うことが多かった。その度に「そうは言われてもフィクションは面白いんだけどなあ、あんたのリアルな話よりずっと」と思っていた。

ここ10年くらいはエンターテインメントに重点を置いて研究している(なぜなら知能と生命の研究者だから)。僕にとってはAIもエンターテインメントの道具か、エンターテインメントを生み出す道具にすぎない。

その中でわかってきたのは、「フィクションでおきるショッキングな出来事は、もっとずっと酷い出来事を経験した人がオブラートに包んだ結果に過ぎない」ということだ。

つまり、「フィクションは嘘だからくだらない」という人は、そのフィクションがどのような現実の経験をもとに作られたか考える想像力をもっていないだけなのだ。

ここまで読んでもピンとこないのであれば、ぜひこの映画を見てほしい。

これは事実上、スピルバーグの自伝映画だ。だから、「インディージョーンズ」や「バックトゥーザ・フューチャー」なんかを見た人、それが大好きな人にとって、なぜスピルバーグが映画を面白くし続けることができるのか知る手かがりになるだろう。人によってはほとんど答えかもしれない。

人の心を動かす、というのは、実際にそうした心の動きを体験して、それを再現しようと試みることでしかできない。これはAIが自動的に作り出すことができないものだ。

つまり、これこそが「環境」である。
裕福な家に生まれても、苦悩や苦痛といったものを敢えて与えて育てるのが帝王学だとすれば、それは意図的にそうした「環境」を作ってやることで知能の劣化を防ごうとした豪族たちの知恵だと言える。

英国の寄宿舎学校やイスラエルのキブツのように、親と切り離してコミュニティを作り、そこで多くを学ばせるというのもひとつの「環境」構築の方法だろう。

最後に遺伝的アルゴリズムによって生成されるニューラルネットワークの話に戻すと、遺伝的アルゴリズムによる淘汰圧(どの遺伝子を優等とするか)を決定することは、それがまさしく「環境」に相当する。

したがって、遺伝的アルゴリズムを用いた場合でも、「淘汰圧の設計」という「環境」の影響を受けることは必然的だ。

人類はAIという最高の道具を手に入れてなお、人間を磨かなければ結局のところ面白いものを自ら作り出すことは難しいのである。AIはどこまでいっても、表現のための道具に過ぎないのだ。