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シン・エヴァンゲリオン劇場版:‖読解:「福音書」としてのエヴァンゲリオン

「シン・エヴァンゲリオン劇場版:‖」を初日に観てきました。作品の細かい感想は後ほどに書くとして、観ながら思ったのは、エヴァンゲリオンとは、文字通り「福音Evangelium」についての話だったということでした。今回、「福音」という部分に着目することで、エヴァンゲリオンを観てきた皆さんの思考の一助となれば、まあ当時雨後の筍のように出た「謎本・考察本」の類だと思って読んでいただきたい。

福音書とは~旧劇場版から

福音書とは「新約聖書」のなかに描かれた、イエス・キリストの言行を記録した書物のことです。新約に収められている福音書は全部で4つあり、「マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ」の四書。これらを英語読みすると「マシュー、マーク、ルーク、ジョン」となります。余談ですが映画「天使にラブソングを」の冒頭、修道学校で不真面目だった音楽好きの主人公が先生に「福音書記者の名前を板書しろ」と言われて最初「JOHN」と書き「PAUL」とかき(パウロは福音書記者ではないのですでに間違っているが、ありがちな間違い)次に「RINGO」と書き「ビートルズのメンバー」を書いていた、というシーンが冒頭にありました。最後に忘れられたジョージ…

余談が過ぎましたこの「マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ」のうち前3書は「共観福音書」と言われており、ヨハネ福音書は「グノーシス主義」の影響を受けている点などで少し毛色の違う扱いを受けております。今回「グノーシス主義」は頻発するワードで、現世のものを汚れたものとして扱い、本当に美しいものは精神や知識など不可視的なものにこそある、という世界観、昔懐かしい鬼束ちひろの「月光」の歌詞みたいな、いまだと半出生主義なんかにも若干の影響を与えている思想です。また、ヨハネ福音書はロシア正教などの東方キリスト教での影響力が強いと言われています。

その理由には東方と西方にキリスト教会が分裂した際の議論となった「三位一体」の考え方の違いがあり、それが今も影響していると言われています。「神・神の子キリスト・聖霊」の三位のうち、西方キリスト教会の考え方では神と人は非相互であり、神からのはたらきかけはあっても人から神への働きかけは断絶していると考える一方、東方では神と人の関係性が相互的であり、キリストが神から人になったように人が神になる可能性もあると考えられています。この思想がドストエフスキーやトルストイなどのロシア文学にも深い影響を与えていると言われています。

そう考えると、「旧エヴァンゲリオン劇場版Air/まごころを、君に(通称夏エヴァ)」はゼーレたちが共観福音書の立場の中、そこに従うように見せかけたゲンドウがヨハネ福音書の立場から人が神に成り代わろうとすることで黙示録を起こそうとする話、と思うと少し腑に落ちる気がします。ヨハネといえば福音書よりなにより黙示録の作者(と言われている)ですし。なにせゲンドウ(言動)という名前はまさに「最初に言葉ありき」で始まるヨハネ福音書っぽさもありますね。

新劇場版 〜Q資料、外典〜


聖書の話を戻すと、なぜ3福音書は「共観福音書」と呼ばれるかという話をすると、この3書はいわゆる「元ネタ」が同じであると言われているからです。それは特にマタイとルカの福音書が、先行するマルコ福音書と、現在は失われた「Q資料」と呼ばれる資料を基に書かれたと考えられているからです。そしておそらくエヴァQの「Q」とはこの散逸した福音書資料のことを指すと私は考えています。例えばここからオリジナルである「マルコ」という言葉がエヴァのオリジナルシリーズと呼ばれた「mark」シリーズに対応し、綾波と式波の二人がそれを基に造られた2つの「コピー」であるという見方もできるかもしれません。ちなみにマルコの章とエヴァのmarkシリーズの数字がなにか対応しているのかと考えて調べてみましたがあまり共通点は浮かびませんでした。

ユダの福音書

さらに、聖書に収められた4福音書の他にも「外典」と呼ばれる福音書が存在します。いわば4福音書が「公式」であるのに対する「非公式」の福音書ですね。その中で特に近年注目されているのが「ユダの福音書」です。この福音書は聖書の中でキリストを裏切ったと言われているユダがむしろ実はキリストを救い主にするためのキーパーソンであったという立場から描かれた福音書です。このユダが俗に言う「イスカリオテのユダ」で映画の最後に明かされるマリの異名「イスカリオテのマリア」という言葉に呼応しています。つまりマリ=ユダはエヴァ世界の外からやってきて、シンジを別の動機を持って救おうとしている人物ということができるのではないでしょうか。


碇ゲンドウ=グノーシス(マニ)説


碇ゲンドウは旧劇の立場においても、グノーシス主義の影響が強いことはすでに指摘しましたが、新劇場版においてそれは更に補強されています。なにせ最後に自分でいかに自分にとって知識と音楽が大事だったかを語るのですから。グノーシスとは「知識」の意味のギリシャ語で、音楽の不可視性はグノーシス主義に礼賛されています。ここでのゲンドウの立場はグノーシス主義の影響が強く、中東を中心に一時期は最大の世界宗教であった「マニ教」の立場である思われます。「ネブカドネザルの鍵」ですし。

渚カヲル〜もうひとりのユダ


とまあ、ここまでのことは、少し気の利いた人なら「Q資料説」や「ユダの福音書」くらいのことを書いている人はいます。大事なのはここから!そこで出てくるのが渚カヲルとは何だったのか?という問いです。おそらく、カヲルも自分が「ユダ」であると思い、別の立場からシンジを救おうとしていると思っていた。しかし、Qのラストで彼は気づいてしまうのです。自分は別のユダであるということを。
実は、新約聖書の登場人物にユダは二人いるのです。一人は言うまでもなくイスカリオテのユダ。そして、もう一人。それが「ユダ・ディディモ」ディティモのアラム語の意味で「トマス」と呼ばれる人物です。ちなみに「トマス」の意味は「双子」であり、渚カヲルという人物の鏡のような役割や、エヴァ13号機のダブルエントリー式、そして第1使徒から13への移行(1と13は午前と午後の対称)など、「双子」を象徴するモチーフが描かれています。また、聖書の中でイエスが復活したことを自分の目で見るまで信じなかったことから「懐疑者トマス」とも言われます。たしかにカヲルくんは懐疑的でもあります。

更に重要なことは、「トマスの福音書」と呼ばれる有名な外典が存在するということです。これもグノーシス主義の影響が強いと言われており、そしてキリスト教の外典であると同時にマニ教の教典として組み込まれているのです!つまりゲンドウ側に与しつつも、シンジを救う側に立つカヲルが、トマスの福音書であると私は考えます。

跋〜感想

ここからは個人的なシン・エヴァの感想です。かつて90年代、11歳の時に「現象」としてエヴァに出会い、当時神戸の小学生だった自分は通り魔事件の影響で集団下校した後に深夜に再放送されていたエヴァンゲリオンを見るという、90年代末期の濃厚な世紀末的空気の中の思春期の記憶と分かちがたく結びついていた作品でした。その作品が完結し、それをおとなになって見ることができたということの感激もひとしおでした。

今作には言うまでもなく庵野秀明の個人史が刻み込まれています。冒頭のパリが復活する際の「DAICONⅢ」、破滅した世界の中で営みを続ける限界集落「風の谷」の日本版のような「第三集落」からの巨神兵のようなエヴァ、「王立宇宙軍ネオアミスの翼」の伝説のロケット噴出シーンを思わせるヴンダーの発進から「ナディア」を思わせる戦艦対戦シーン、「彼氏彼女の事情」「式日」「シン・ゴジラ」など、彼の作品に思い入れのある人にはかならず引っかかるように作られた本作は、また一方で日本SF史を総括しようとする意図さえ感じました。例えばノーランのモチーフ。場面転換しながら一連のアクションを繰り返すシーンの「インセプション」感や、ゴルゴダオブジェクト以降の「インターステラー」的なモチーフ。また南極から赤い海が吹き出すシーンは「SWep8」のシーンのオマージュのようにも見えつつ、しかしそもそも「インセプション」は今敏「パプリカ」であり、「インターステラー」は「ほしのこえ」および「トップをねらえ」であり「SWep8」は「さらば宇宙戦艦ヤマト」であるということを暴いているようにも見えるという、引用、オマージュが複雑に編み込まれているかのようです。さらには日本SFの偉大なる失敗作「さよならジュピター」からの松任谷由実の転用は、ほとんど氏のSF史の総括のようでもありました。

ただ、巷で言われるほどは自分は庵野秀明自身の「私小説」性というのはあまり感じませんでした。もちろんこれは庵野秀明の個人史と私性と切り離せない作品であるのは事実ですが、それは優秀なスタッフたちとのやり取りの中で庵野が「選び取っていく」事によって紡ぎ出されたものであり、庵野の私性から発出したようなものではないように感じたからです。そもそもマリのモチーフは貞本エヴァから取り入れてもいますし。あの明らかに「ゲンドウ=庵野」である自分語りも、自身からではなく提案された形で、恥ずかしいことをわかっても「あえて引き受け」ていったからこその大人としての覚悟というのを感じた。
そうやって、物語を終わらせるために全霊を尽くすこと。序から始まった作品を繰り返すのではなく跋をつけること(ポスターのマリはXのポーズをとっている!)観客の期待に答えるために作品を作るという意味ではこれは「夏エヴァ」と動機はあまり変わりません。しかし夏エヴァが「お前らが喜ぶものをみせてやる」と言わんばかりの露悪性(観客を映す!)や天才鷺巣詩郎にあえてカノン進行でベタベタな曲を書かせる「甘き死よ来たれ」のような自虐的な悪意に比べ、本作は観客に対して実に誠実に向き合っているように感じた。
一方で、一抹の寂しさを覚えてしまうのは、作品に散りばめられた「謎」がある程度明らかになるにつれてそこにあったそれ以外の「可能性」がなくなってしまうということだったのかもしれません。TV版のあの解決されなかった謎のモチーフや言葉、そして回を追うごとに破綻していったあの作品に込められた熱量にこそ、我々の心は捕われてしまったのではなかったのだろうか。何だよ庵野大人になりやがってよー、などとうそぶく人たちの気持ちはわからないまでも、そもそも妻と一緒に映画館に観に行ってしまった自分のような人間にはなにも言う権利などないと思ったのでした。(了)


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