「逃げ若」の宣伝をしていた北条氏の末裔

こないだから
逃げ若」の宣伝をしている人が多いと思っていたんですが、
きょうもこんなまとめが上がってました。↓

アカウントが非公開になってしまったんですが、
本人のつぶやきによると、↓

追記で言っておくと、実家の実家が義時の子が作ったお寺ダヨ

https://archive.is/JdABq

https://megalodon.jp/2024-0816-1426-24/https://webcache.googleusercontent.com:443/search?q=cache%3Ahttps%3A%2F%2Fx.com%2Febisi918%2Fstatus%2F1823315056979067221&oq=cache%3Ahttps%3A%2F%2Fx.com%2Febisi918%2Fstatus%2F1823315056979067221&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUyBggAEEUYOTIGCAEQRRg60gEINTgwN2owajeoAgCwAgA&sourceid=chrome&ie=UTF-8

北條寺の現在の住職は、
渡辺さんという方みたいなんですね。↓

鎌倉幕府の二代執権・北条義時の眠る
「巨徳山(ことくさん)北條寺」(渡辺文浩住職
https://www.at-s.com/news/shittoko/1157625.html

伊豆の国市江間 北條寺(臨済宗建長寺派)
https://mishima-otera.com/2021/11/17/post-937/

お寺の世襲についてはこちら。↓

そもそも、お寺の住職が世襲になったのは
いつからなのでしょうか。

浄土真宗だけは
在家の仏教なので代々世襲されてきたのですが(※)、
それ以外の宗派では、
1872(明治5)年の太政官布告(明治政府が出したおふれ)で
妻帯が認められて以降、世襲が始まりました。


https://okei-office.com/2023/02/9427/

こんな人もいますが、
同じ理由から微妙ですね。↓

私の先祖は若狭町熊川得法寺で、
北條義時の次男朝時が比叡山で修行の後創建し
境内には三鱗の家紋の墓があり先の住職も北條性でした。
https://web.archive.org/web/20230204064524/https://hojyo.jp/wp/?p=170

得法寺は福井県三方上中郡若狭町熊川に境内を構えている
浄土真宗本願寺派の寺院です。

得法寺の創建は嘉禄2年(1226)
慈円房須智北条義時の子息で比叡山延暦寺の僧)が
草庵を結び阿弥陀如来像を安置したのが始まりと伝えられています。

当初は天台宗の寺院でしたが文明7年(1475)、
蓮如上人が越前国(現在の福井県)から上洛の際当寺を訪れ
「船路の御名号」を賜わったことで
浄土真宗に改宗しています。

https://www.fukureki.com/kumakawa/tokuhou.html

ちなみに、この創設者の慈円房須智ですが、
義時の次男で、北条朝時という人がいて、
この人が出家していたみたいですね。↓

その後の仁治2年(1241)、
朝時は出家して「生西(しょうさい)」と号したといいます。
翌年には、執権・泰時が死去。
ここから、執権家と名越氏とは次第に疎隔してゆく兆があらわれました。
https://serai.jp/hobby/1089609/2#google_vignette

名越の尼は文永八年の法難に退転し、
逆に日蓮聖人の教えよりも天台のほうが勝れていると主張しています。
名越家にはもともと天台宗信仰があったのです。
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index101.htm

他にも出家した人はいたみたいなんですが、
法名が違うんですね。↓

北条有時 →蓮忍
北条実泰 →浄仙
北条政村 →常盤院覚崇

北条義時の隠し子?それとも…
『吾妻鏡』には登場しない3人の息子たち
https://mag.japaaan.com/archives/191077

義時の実子の家系だとすれば、
かなり濃ゆい家系ということになりますが、
お寺を建ててから、浄土真宗に改宗するまでに
150年くらいの間を、どうされていたのか
ですね。

で、なんでこのアニメを宣伝しているのかを
考えてみたんですが、↓

現代で北條を名乗っているのは
後北条氏の流れか
江戸から明治の仮冒が多く、
所謂鎌倉北條氏の流れですと
名越(丁度息子の友人にいます)等
〜〜流の苗字を名乗っている事が多いのです。

時行の子孫である程度信憑性が高いと思われる
曾孫の北條行長の家系の苗字は
横井氏や岡野氏になります。

https://x.com/shiro1go/status/1823322190483423445

横井家系譜 伊勢新九郎(北条早雲)は
出自に諸説あるも
『諸系譜』の記述に拠れば
北条時行熱田大宮司の娘との間に北条時満を授かり
北条時満の孫の代に横井(北条)行長が生まれる事となった。
新九郎はこの北条(横井)行長(伊勢貞親の妹婿)の養子に入った為に
北条氏を名乗る正当性があったのだと云う。
https://x.com/ujito2020/status/1354471010460782595

というわけで、要するに
鎌倉北条氏と、戦国北条氏との間には、血縁関係がある、
という説に基づいている、ということなんですね。

で、戦国北条氏の末裔というか当主というのが、
創価学会の4代目の北条浩・元会長なんですね。

まあ、どちらのお家も、良い話、悪い話あるんですが、
創価学会というのは、日蓮宗の一派の
日蓮正宗から派生しているんですね。

ですから、北条氏だとか、その親戚筋で
本山とゆかりのある南条氏というのは
親しみのある家なんでしょうね。

まあ、ですから、
イメージアップの意味合いが
あったりするのかも知れないですね。

ちなみに、うちの親戚の家は
南條氏の末裔らしいんですね。

まあこれはでも最近になって聞いた話で、
特にそういう関係から批判をしているわけでは
ないということは以前にも述べたとおりです。

で、名越流の家系図があったんですが、
これによると、7世代目の名越高邦という人が
「逃げ若」の頃の人みたいですね。↓


この高邦の父親が、高家という人で、
今川氏豊の娘と結婚して、その一族が
戦国時代には、名古屋方面で活躍していた
という話があるみたいですね。↓

この本で「那古野今川氏」でなく
今川名越家(いまがわなごやけ)」と呼ぶ一族は、
ルーツを辿っていくと、
今川義元の駿河今川家の親類であり、
さらにたどっていけば「鎌倉殿の13人」でおなじみの
北条義時の次男・朝時が、
祖父で初代執権の北条時政が住んでいた鎌倉の名越というところで
名越流北条氏の祖となった、というすごい話になります。

つまり名越(読みはなこし・なこえ・なこやなど)北条氏
今川国氏の娘と結婚して今川名越氏となり、
やがて遠江(静岡県西部)、
そして尾張・那古野に入ってくるという
信長誕生前の1200年代、1300年代、1400年代の
名門一族の話が書かれています。
https://plus.chunichi.co.jp/blog/mizuno/article/233/11053/

wikiによると、

難太平記』によると、
今川氏の祖である今川国氏の娘である妻との間に高範という遺児がおり、
中先代の乱の際に伯父である今川頼国に保護されて養子となり
今川那古野家を名乗ったという。

安土桃山時代の武将で歌舞伎の祖とされている名古屋山三郎
その子孫とされており、その末裔は加賀藩に仕えた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%AB%98%E5%AE%B6

 今川那古野家は、代々、
室町幕府奉公衆の一番衆に属する今川氏であり、
今川基氏の長男である今川頼国が、
北條氏の名越高家の子で、名越高範を
養子としたことが始まりだそうだ。

 名越高範の母は、今川国氏の娘であり、
母方が今川氏という縁でらしい。

 その後、明徳・応永年間に、
今川仲秋が尾張守護となった際、
今川一族か仲秋の庶子を
今川那古野家の養子にさせ、
尾張の代官としたそうだ。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054888982903/episodes/1177354054898654152

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