ウラジミール・プーチンの幼少期
ロシアによるウクライナ侵略は世界に衝撃を走らせた近年最大の悲劇だ。大国ロシアを意のままに操るウラジミール・プーチンとは一体何者なのか。
ロシアの大統領プーチンは近年の国際情勢において最も危険視されてきた人物であるが、21世紀においてここまで過激な行動に出るとは誰が予想しただろう。プーチンはなぜ大義のない残虐な戦争を推し進めるのだろうか。彼の原動力は何か。それは、彼の過去を知らずには理解できない。
プーチンが生まれたレニングラード(現サンクトペテルブルク)は第二次世界大戦前には300万を超える人口を擁するソビエト連邦第2の大都市だった。戦時中にドイツ軍によって包囲された3年足らずのうちに亡くなった市民は100万人を上回った。その犠牲者のほとんどが餓死したと言われている。最も食糧確保に苦しんだ冬の間、人々は1日125グラムのパンしか口にすることができなかった。しかもそのパンの50-60%は木くずなどの本来食用でない原料が占めていたと言うから驚きだ。ドイツ軍の脅威と食糧難、病気、寒さに晒され、人々は過酷で悲惨な生活を強いられた。
プーチンの家族も例外ではなく、戦争で多くを失った。母親は飢えで死にかけ、父親は戦場でひどく負傷し、プーチンの二人の兄はいずれもプーチンが生まれる前に病死した。プーチンが生まれた1952年、レニングラードは大戦の傷跡が未だ癒えず冷戦の最中にあった。父親は工場で働き、母親も常に仕事で家を空けていた。プーチンは電気と水道が通っていない、ネズミであふれ返った共同アパートで孤独に育つこととなる。小柄で痩せ細っていたため、同級生からいじめられ、共同アパートの別家族からも暴力を振るわれ、プーチンの幼少期は安全と愛情とは無縁の生活だった。
幼少期の恐怖体験や肉親からの愛情不足といったトラウマは、子供に取り返しのつかないダメージを与える。知能の発達やオキシトシン受容体の数といった脳の分子レベルの構造までが、安心の得られる環境で育ったか、母親と一緒に過ごすことができたかによって影響を受けるのである。プーチンの幼少期は、ネグレクト、いじめ、両親を失う恐怖、不十分な居住環境と食糧不足といったトラウマを引き起こす要素をたくさん持っていた。結果、プーチンは一生不安に怯え、ストレスに敏感で自信が持てない生きづらさを引きずることになってしまったのかもしれない。
プーチンは小学生に上がると柔道を通して自分の身を守ることを学んだ。柔道を習い始めてからはいじめも減り、コーチと小学校の先生がサポーターとなりプーチンの能力は次第に開花し始める。高校では優秀な成績を収め、レニングラード大学法学部を卒業すると、100人以上の生徒の中から選ばれ、KGB (国家保安委員会)に就職した。KGBのスパイになることは、青年期からプーチンの夢だった。大学のクラスメイトであり、KGBの同僚によると、プーチンの粘り強さと目標を達成する意思の強さは、抜きん出ていたという。ソビエト連邦が崩壊すると、プーチンはKGB のトップに登り、ボリス・エリツィン大統領が辞任すると、ロシアの大統領になった。そんな功績の裏には、幼少期に感じた無力さや不安、愛情への渇望があったに違いない。絶大な権力を手に入れることで、弱い自分を取り払い、強い自分になることで幼い時に得られなかった安全基地を確保できたのだ。
幼少期のトラウマはその子に生きづらさや自分でいることの違和感を感じさせるが、それが原動力となり、時にはものすごい才能が引きだされることがある。プーチンが高い志を持ち、権力の頂点に上り詰めることができたのは、過去の過酷な経験があったからに他ならない。いじめられっ子を脱却するために強さを追い求め、力を得る度に愛されなかったことを忘れ、自分を受け入れることができる。薬物依存者が薬物の害を理解しながらも、使用時に得られる安心感や快感を手離せないように、プーチンは権力に依存している。プーチンの中で西側諸国は自らの権力を脅かす脅威であり、彼は被害者として身を守っている。例えそれが多くの死者を出そうと、必要なことなのだ。先手を打って攻撃を仕掛けることが最大の防御であることをプーチンは柔道を通して学んできた。幼い頃の愛情の剥奪や戦争の脅威が苦しみとなり、無意識にもプーチンは同じ境遇を今のウクライナに負わせてしまっている。
我々はつい、プーチンのような気の狂った独裁者は、自分とは別の星の生き物だと思いがちである。プーチンは生まれた時からの極悪人で、その考えは我々の理解の遥かに及ばぬところにあると勘違いしてしまうのだ。しかし実際は、プーチンは武力と権力に身を纏った心に傷を負った少年で、彼もまた戦争の被害者の一人であり、第二次世界大戦と冷戦の産物にしか過ぎないのである。スターリンとヒトラーも同じように恐怖や不安に苦しんだ人物だった。最も権力を持った人ほど、虚無感に苦しんでいるのかもしれない。