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クリムトの「死と生」にかけられた黒い液体に対して思うこと。

 Sheep dogsと申します。私は現在、大学のゼミで西洋美術の歴史や運動について研究しており、ついこの間まではクリムトについての研究をしていました。
ですから、この事件に対して、いろいろと思うことがあり、今回はこの記事を制作することにしました。

まず初めに、今回襲撃にあった作品である「死と生」は、1911年にグスタフ・クリムトによって描かれた絵画で、ローマ国際美術展にて最高賞を獲得したことで有名です。
 クリムトは完璧主義の一面を持っていたため、彼が描いてきた作品の多くは後々、加筆されることが多かったのですが、この作品に関しても、受賞後の五年間、加筆され続けたことで知られています。

この作品は、死(死神)に対して、老若男女を描き、それらは「希望」として表されています。当初は金箔を使用していましたが、加筆の段階で背景は落ち着く色に塗り替えられました。

「死と生」1911年

クリムトといえば、「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像」や、「接吻」のような黄金を用いた壮麗な黄金様式をイメージする方も多いと思います。しかし、晩年には、上記のように金色は使わなくなっていきます。

「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像」1907年
「接吻」1908年

 今回の襲撃を耳にして、まず私が頭に浮かんだのは、彼の身に起きた最悪の事件とも言っていい、「学部絵」のスキャンダルです。このスキャンダルとは、ウィーン大学の依頼によってクリムトが作成した天井画が、巻き起こした事件のことです。
 彼は、この依頼において「医学、法学、哲学」の三作品を担当しましたが、完成した「学部絵」を見た当時の評論家と、当時のウィーン大学の教授たちは、その内容が公的教育機関の施設に対し、不適切であるとして厳しく非難しました。
 この批判にクリムトは激怒し、この件を境に公的機関との関わりを断つようになります。
 というのも、彼が描いた作品の中でも「哲学」は、1900年に開かれたパリ万博にて金賞を受賞しており、国外では高い評価を得ていたからです。彼の作品は、アール・ヌーヴォーの先駆けと称され、ヨーロッパ象徴主義の傑作の一つに数えられるようになっていました。

「哲学」1900年

しかし、クリムトが受けた仕打ちは、このスキャンダルに留まりませんでした。
 上の画像を見ていただければわかると思うのですが、この作品を現在、フルサイズ、フルカラーで鑑賞することは出来ません。というのも、彼の学部絵三作品は、いずれも1938年にナチスに没収されたことにより、第二次世界大戦において戦闘地帯となったインメンドルフ城にて焼失してしまったためです。

今回起きた「死と生」における襲撃事件は、この学部絵の事件を彷彿とさせるものであり、美術史から見て、重大な価値を持つ絵画作品が失われることは、あってはならないことだと考えています。
 これ以上、価値ある作品が、いたずらに失われてはいけないということを、各々が再認識しなければならない事件であると思いました。





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