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6/15 CARDINAL『CARDINAL』

CARDINALを聴きながら寝室で、それまではマイルスのライブを流していたのだが、織田作之助の『夫婦善哉』に入っている短編を繰っていたのだが、どうも頭の調子が良くない、それは毎年この時期になるといつもそうで、夏が終わり、秋のすっと空気が澄んだ日に富永太郎の詩(「私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去つた。道路のあらゆる直線が甦る…)」が浮かんできてはっと我に返る、やっぱり今年もやってきたのか、去年は原因不明の右脇腹の痛みにうなされて一ヶ月近く七転八倒していた、梅雨の気圧も影響しているのだろう、文章も散らばっているがこのまま打ち込む、薄明かりを灯して、妻を居間に残して一足先にベッドに寝っ転がって、ちゃっと読める本でも繰って少しでも無為ではなくなにかを積もうという浅ましい根性で、かける音楽はなるべくぼさっと流せるものがいい、それで、亜熱帯の気配を感じる後期のマイルスを引っ張り出してきたのだが、どうにもはまらない、もっとたいしたことのない、どちらかといえば諦念に近いような、ああたとえばGalaxie500なんて最高だが、それはちょっとあまりにも「らしすぎる」ということで、ふと、AIDSというレコード屋でかつて薦められたがあまりにも地味だったために買わなかったCARDINALというデュオのことを思い出し、今かけている、実はさっきも居間でかけていたのだが、その時にはこういう音楽はそれこそ秋か冬に聴くものだと思っていたのが、こうして時間が経って、風呂にも入って、照明の加減も変わったところで聴くと不思議とはまってくれる、これで本の続きでも読みながら時々美しいメロディーのフックのようなものを聴いたら。そういう頭とは裏腹に、現にいま流れている曲なんてすごくいい、しかしフックなんてない、気の利いたパンチラインなんてない、でも、ただ流れていくその空気が良い、そういう音楽というものがあって、そういう音楽だったのだ、そしてそれはこういう冴えない夜の自分を救ってくれる、なんて嘯いていると、すいませんでした、とんでもなく気の利いたパンチラインのある美しい曲が流れてきて、そうそう、声にならない、言葉にもならないものがささやかな祈りとして捧げられることもあるのだ、ということを思い出す。



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