2021/09/20 スピノザのエチカ トモダチのオオサ(ハンターハンター風タイトル)

※僕はスピノザのエチカについてニワカです.
まじでまた聞きで話します.

神はこの世に二人の人類を創造した.
アダムとイブだ.
二人は神によって苦しみ一切ない楽園,「エデンの園」に招待し
世界の創造を続けた.
エデンの園の中央には「善悪の知識の木」があった.
その木には果実が実っていたが,神は二人に絶対にその木のみを食べていけないといいつけた.
しかし,悪魔の化身であるヘビがイブをそそのかし,アダムとイブ,二人は果実を食べてしまい,神は二人をエデンから追放した.
しかし,なぜ神はその果実を二人に食べてはいけないといったのだ.
ここには多くの解釈がある.しかし私は知らない.
ただ一人,スピノザが自身の解釈を論じ,みんなから嫌われたことだけを知っている.
「だって,そんな知らない果実食べてしまったら食中毒になるかもしれないじゃん.」

彼は生前,その無神論者的立ち位置を取り続けることでキリスト教全盛の世の中で迫害された.
一度暗殺に遭い,生死をさまようような傷を負わされることもあった.
キリスト教を始めとした宗教における善悪は,神やその教義によって決定される.
だから,教義を遵守するという意味でも,物事の善悪というのは非常に重要な価値観なのだ.

しかし,無神論者と言われるスピノザ(実際は彼は自身のことを無神論者だとは思っていないがその考え方が故に無神論者としてのレッテルを貼られている)の考える善悪の基準はいたってシンプルだ.
それが「自分にとっていいことか,悪いことか」ただそれだけだ.
例えば,先ほどの例のように「禁断の果実」を食べることは神への冒涜であり,神の教えを守れなかったことが原罪として私たちに悪を与えている.
しかし,スピノザは「でもなんで神は食べちゃダメっていうの?」そんな疑問に対して,
神の持つ神秘性なんて関係なく「食中毒のリスクがあるから」と,超現実的な解を持つのだ.
これだけ聴くと,彼が無神論者としてのレッテルを貼られることもしょうがないような気がしてくる.

さて,長々とスピノザについて話したが.
この「自分にとっていいか悪いか」という判断基準は非常に重要な視点だと思う.
近年,SNSの発達によって他人と自分の境界線があいまいになってきている.それ故に自分という存在を見失いやすくなっている.
そしてそもそも,私たちは思春期から青年期にかけてアイデンテティを探した旅に出る.
確固たる自分がないが故に判断基準を他人にして,必要のない劣等感や罪悪感を自身に押し付けてしまう.
だから,自分としての評価基準がなくなって,自分と他人を相対評価してしまいそうなとき
スピノザ的な評価,それは自分にとっていいか悪いかというフラットな評価をすべきだと思う.

かくいう私も,高校から大学にかけて自分という物を見失い続けながら自分を批判し,全く違う人間への憧憬とそのギャップで自身を苦しめ続けた.
3~4年生になって,やっと自分の価値観や評価軸を見つけて,他人と自分の違いを見分けられて他人へ嫉妬することもなくなった.

さて,本題について話そう.
いつもいつも私の文章は前段が長いなあと感じる.
しかし,私の話したいことを最低6割でも理解してほしいと思った時,やっぱり前提となる考え方や背景は共有して話したいと考える.
私はいつも「友達が少ないキャラ」で生きている.
まあ実際少ない.降りかかる火の粉を振り払うことが癖になっている私は,人間関係が増えるとリセットする癖がある.
実際,高校時代の友人はもうすでにほぼ友人と言えないほどに連絡は取っていないし名前も知らない.
大学に入っても,私は自分自身から友好関係をグイグイ広げるタイプじゃないからクラスの人以外に北大の友達はほぼいない.SFTの友人も北大にはいない.
そんな私の性質を数少ない友人は知っている.
私は友人が少ないから予定が空いているのを知っている.
だから,友人からも「れーじは友達少ないもんね」と言われる.
私と友人の視野の重なりは人間の視野が180°あるとするならば10°やそこらしかない.
彼は私と重なった10°を見て,彼の物差しから見て友達がすくないと感じる.
私はこれに悩むことが多かった.実際友人がいろいろ遊んでいる中,私は一人でパソコンの前に向かったり,1日に3~4回のミーティングや面談をしている.
人の人生を全てInstagramに反映される世界であれば,ぼくの人生にいいねはつかない.
だからいいねのつくような人生に憧れた.
私は私の人生なのに,他人の評価軸で評価して,そのたった10°の重なりから劣等感を描いていた.
残りの170°には他人にはない魅力があるのに.

そもそも友人とは何だろう.
さて,友人が多いとは何だろう.
友人は多い方がいいのだろうか.
この問題はあたかもキリストや伝道者が与えた教義のように正解があるように感じる.
友人が多いのは,いつも遊ぶ人が多くて常に飲み会に言っているような人.
友人とはそういうことをできる人.
友人が多い方がいいじゃん!当たり前じゃん!だってその分できることだって増えるし!!
でも,実際は私たちは教義ではなくスピノザ的価値観に生きている.
全員に決められた教義ではなく,一人一人の個別の事例においての良しあしがある.
例えば,一般的な友人はさっき示したような人たちだろう.
実際僕の周りの多くはそういう人で埋め尽くされている.
でも,僕は違う.
みんなと違って,一緒にプロジェクトを作ったり,団体を良くしたり,年に数回ある全国の集いで楽しく話せるような人々が友達なんだ.
僕はこれまで,他人の評価軸で生きてきたけど,僕には僕の友達の評価軸があった.
友人が多いとはなんだろう.
僕の周りの人はみんな,一緒に遊んだりご飯に行く人が多いと友達が多いと考えている.それはフィジカルの世界に生きフィジカルの視野の中ではそうだろ.
でも,僕は1年生からフィジカルの世界から飛び出した.オンラインでつながった.
他の友達からは見えないし,フィジカルの世界に生きる友人には想像のできないような友達関係を作り上げた.
もちろん,正直言えば実際に会って遊べないのは寂しいとこもある.でも,オンラインだからこそ僕らはどこにいてもつながれる.
フィジカルに生きる彼らは,フィジカルな友人は多い.
しかしその分友人の性質は似通ってしまうし,そもそも友人人数の限界が存在する.
そういうことを考えた時,今の私がフィジカルの友人と同じ土俵に立ってわざわざ友人が少ないと卑下する必要はない.
友人が多い方がいいか.
正直,私という人間の価値観に基づけば,そんなにいらない.
私は一人で本を読んだり,映画を見たり,絵画を見に行ったり
そういうのが好きだ他者の干渉をうざったく感じてしまうことが多い.
そもそもの性質として陽キャ的友人感覚があっていない.
それを踏まえると,私の今の友人は,他者の言う友人の多さに比べてずっとずっと私にあっているのだ.
私には私の善悪がある.
他者の視野に,価値観に依存せずに僕はスピノザ的に
自分の善悪に従おうと思う.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?