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〈seeker〉乱闘ホテル

〈Mu_K(formless)の場合〉
真実とはなんだろう。それを考えて、今8750万年が経っている。その歳月を、真実を積み重ねることだけに費やしてきた。真実を積み重ねることは力を得ることである。これまで、戦いに勝利するということは真実を積み重ね、力を得てきた。
一方で俺は混沌を求めていた。真実をストイックに積み重ねるのは、俺が誰よりもそれを否定してほしいと感じているからかもしれない。或いは……俺はずっと真実を追い求めてきたが、真実でない状態を知らずに、そういうものとして真実を了解していたのかもしれない。
長い間眠っていたようだ。眠っていたということに気づくということは、この世界における自己の座標を確認することができているということであり、絶えず真実を問うているこの世界における俺を再確認してもいる。回想に次ぐ、回想、問いに次ぐ問いを発しながら、ゆっくりと世界に身体が馴染むのが分かった。求道者にとってはもうルーティーンに組み込まれているが、いつでも新鮮な気持ちを忘れないようにしているのだ。
そのままダイニングに向かい、シャリシャリとしたりんごを口に含みながら、手元のグラスを見つめる。温かい羊水が、原始の世界へと俺を回帰させた。
まず、この世界についてだが、これは一つの可能性を示しているだけであって全てではない。俺のように真実を求める者は、〈seeker〉と呼ばれる。極めて特異な存在と言え、肉体が破壊されようとも、同じ魂と記憶、能力を持って別の身体に交換しながら生き続ける。生まれ変わったあとも同じ世界で生きるとは限らない。あらゆるバリエーションを経験しながら、因縁を結び、強さを求めていく旅が〈seeker〉の宿命だ。
〈seeker〉に限らず、どんな人間にも魂があり、独自の構造を持つ。それを高精度で見ることができるのが、俺の独自性である。まぁ、詳しく言うと別の〈seeker〉に対策されるから、この辺で。
やがて俺は軽食をとり、外へ出る。今日もまた真実を積み重ねるために。外に出て、人や風景と会い、カタチに触れる。それはある種の"筋トレ"である。把握できる構造の数を少しでも増やすために、普段から目を鍛えているのだ。住む場所も転々とする。空間構造を一つでも多くストックしておくためだ。構造を格納するスケッチブックに、幾何学模様や抽象的な色を散りばめていると、この日は終わってしまいそうだった。終わってしまう日を繋ぎ止めるかのごとく、今日はなんとなく外泊しようという気になった。
隣街までふらふら歩いていると、築300年程度のレンガ造のホテルが目に入った。
「すんませ〜ん。一名一泊、予約無しで泊まれますかね〜」
俺は、予約など取らない。日々衝動に従って生きている。大胆に受付に宿泊の意志を申し出る。
「へえ予約無し、ですか」
奥から良く通る男の声が聞こえた。
「ああ、はい、そうです」
俺はそう答えつつ、受付らしき男を観察した。構造を掴むのに観察は必須であり、もはやライフワークと化している。比較的暗い色の上下の服、直感に優れた者特有の鋭い目、それとは正反対の穏やかな柔らかい雰囲気。彼の名前はRoxであることが読み取れた。彼はどんな構造をしているのか。まずは実際に切ってみるのがいいのだろうが、一日が終わっていく感傷に満ちた雰囲気を台無しにはしたくない。だが、なんとなく通常の方法では切れないような気がする。彼も〈seeker〉である可能性が高い。もう少し情報を得てから対話_いや、バトルを挑みたい。俺はRoxからいったん視線をそらした。
「運がいいですね。さっき一部屋空いたんですよ。あなたで満室です。なにせ、十部屋しかありませんからね」とRoxが俺に言った。
「あぁ、部屋へはあのエレベーターを使って行ってください」とRoxは続けた。
「どうもありがとう」俺は軽く会釈し、エレベーターに向かった。俺は早く部屋でこのエモい夕方と新しい空間構造を感じたくて仕方がなかった。俺は少し古びたエレベーターに乗り、四階のボタンを押した。
☆☆☆
〈Roxの場合〉
ホテルの受付は、まあ、私にとってはぴったりの仕事だ。〈seeker〉が真実を積み上げる方法が別の〈seeker〉を倒すことである以上、効率的に〈seeker〉と接触する方法を持つことが必要である。実際、このホテルで数多の〈seeker〉を私の手で葬り去ってきた。このホテルは街の中心部に位置し、比較的多くの客が宿泊する。しかし、基本的に宿泊者がチェックインすることはできてもチェックアウトすることはない。まぁ、この世界からチェックアウトすることは可能であるが。

そんなことを考えながら、私は私自身のモノローグに笑ってしまった。
そして私は少し前の出来事を回想した。
昼下がり、フロントで事務作業をしていると、一人の宿泊客が訪ねてきた。彼女はオレンジと赤色の混ざった、肩まである長い髪が印象的で、花の形に結われた髪が耳元を彩っている。彼女の服はレースのような素材でできていて黒を基調としている。ブーツは太ももを隠すくらい長く、レースのタイツと合わせている。落ち着いた色の服と華やかな髪の対比が映える姿形である。人形のような風貌の少女だと思ったが、実際彼女は人形なのかもしれない。彼女の関節は球状のもので繋がれていたから。
私は、ああ彼女は〈seeker〉なのだろう、と思いながらいつものように部屋の方向を指そうとした時、頭部に違和感を感じた。頭部がとれそうな感じがするのだ。同時に、指や腕、足、脚、関節部分に痛みがはしる。常人ならば手、足、首が切り離され死亡するだろう。
「どうして……」
彼女は小さく呟いた。彼女の様子は心身を喪失しているかのようである。
「2本の脚が……交互に……動いてる……気持ち悪い。ああっ。人間の身体……。こんなに、動かないでっ……私は……私の身体……私は、生きているの?」
彼女は完全に話が通じそうにない。少女は身体の造形や彼女以外の生きている存在に違和感を覚えているように見える。
「他の人の脚が歩いているの……まるで、脚が意思をもったように。でもね、私、私自身の脚も動いているの。私も歩いているのよ。私は、脚に歩かされているのかもしれないわ。それで、ふとした瞬間に自分が生きているんだって思い出すの。でも他の人が歩いているのを見ると、私が死んでいるのが強く分かるの……」

「おやおやおや……可愛いお嬢さん。あなたは大変そうですね。ですが、あなたはとても興味深いことを言っています。ここは一つ、実験に協力していただけますか?あなたの感じている不安はどこから来るのか、そしてどこへ消えるのか。私はそれを知りたいのです」
私は彼女をエレベーターに誘導した。彼女は幼げな目を潤ませながら、ポケットからテディベアを取り出してぎゅっと握っていた。
私は少女に声をかける。
「さて、準備はできましたか?どうやら、少し震えているようですが。そしてあなたの小さなお友だちも」
「私にはこの子がいるから、大丈夫、怖くない、怖くないの。テディ……!」
少女の手に力が加わる。テディの胴体は少女の挙動により、半ば綿が見えている。
このエレベーターは、ただの板でできた空間であり、実際には装置によってではなく、私が〈seeker〉として極めた能力によって動いている。重力を操作することに、私は8600万年程度かけてきた。あらゆる状況での能力の作用と結果を観察し、さまざまな対象に重力操作を加え、私のデータベースは洗練されてきた。エレベーターの上昇、下降、粉砕、それらは赤子を持ち上げるより簡単なことだ。
「ふっふふふふふ。さて、身体感覚が鈍くなったあなたはこれから何を感じるのでしょうか。そしてあなたの目は何を映すのでしょうか。あなたの"座標"はどこへ移動するのか、見てみましょう」
私はそう告げ、エレベーター内の重力を操作する。
その瞬間、エレベーターは急降下し、ガシャーンという派手な音を立てた。常人ならば即死するだろうが、私の予想では彼女は生き残っているでしょう。私はエレベーターの落下地点まで移動し、エレベーターの内部を観察する。彼女は小さなテディベアをしっかりと抱えて眠っているように見えた。彼女の目元に、まだ乾いていない液体が残留していた。彼女のテディベアをじっくり見てみると、その目は殺意に満ちた仄暗い色をしていた。
「ほう!あなたもなかなか根性があるようですね、小さなお客さん。それとも、彼女の本体がテディベアなんでしょうか。ところで、あなたの魂はどこへ行くんでしょうか?このエレベーターの上昇とともに、あなたの魂も昇っていくと思いますか?私がこのエレベーターを粉砕したら、あなたの魂もバラバラになるんでしょうか?うっ、痛い!痛い痛い痛い!」
足元を見ると、彼女のテディベアが私の足を噛んでいた。私の身体から紫色の星の欠片が四方に飛び散る。なぜテディベアに生命が宿ったのか。可能性があるとすれば、このホテルでさまよう、かつて私に葬られた魂が入り込んだのだろう。親和性のある魂は、魂の根源に比較的深い傷を与えることができる。おそらく、テディベアに宿った魂とどこかで会ったことがあるはずだ。
「あなたの勇気は評価しますが……私の身体は通常とは異なる仕組みでできているようです。少なくとも、あなたに私は殺せませんよ」と私は少女のぬいぐるみに告げた。
そして私はテディベアの存在の根源に横たわる"重さ"を消し去った。殺意に満ちていたテディのガラスの瞳は、今は私の顔のみを映している。私はもう一度、魂と接触しようと考えた。私はテディを再び少女と同じエレベーターに入れ、今度は重力を反転させた。急上昇するエレベーターはホテルの天井に派手に激突し、ガッシャーン、と大きな音を立てた。しかし、エレベーターは止まらない。エレベーターは降下と上昇を繰り返し続ける。

「〜♪ ふんふ〜〜ん♪ ガシャーン♪ ガシャーン♪ ガシャーン♪ キャハーー♪ キャハハーーー♪ キャハハハハハーー♫」
Roxは気分が良くなってその場で嬌声を上げていた。そしてRoxが正気に戻った頃には、魂を観察するにはあまりにも時間が経ちすぎていた。
⭐︎⭐︎⭐︎
〈Mu_Kの場合〉
俺はエレベーターの中を観察する。一見するとただのエレベーターのようだが、その仕組みは〈seeker〉による重力操作に基づいていると判断することができる。エレベーターは木の板のような壁面で四方が囲まれている。エレベーターは四階に向かって上昇するが、エレベーターの上昇は止まらない。ホテルの天井に激突する直前、俺は以前収集した構造世界を展開し、かろうじて全身打撲を免れた。これは俺の非常に便利な能力で、以前掴んだことのある構造を現実世界に転用できるというものだ。俺はこれを利用することで任意の時間、空間と空間の間のバグスポットに入ることができる。ここでは重力の影響を受けない、虚無が構成している。
ところで、こんな残酷かつ派手な行為ができるのはおそらく先ほどの受付の男だろう。
「おい、いきなり何すんだよ!死ぬかと思ったぜ」と俺は叫ぶ。
「あなたは、なかなかやりますね。今のはどうやったんでしょうか。素晴らしい技ですね」とRoxはわずかな微笑みを浮かべながら言った。 

強い奴と出会うとまず、俺はその構造を探りたくなる。それはもう俺の性分だと言ってもいい。さあ、お前の構造はなんだ?と問いながら俺はRoxを思考の網にかける。俺は存在の境界を探りながら、絶えず変動するパラメータを観察する。言葉は嘘をつくが、構造は真実である。
見た目に惑わされるな、俺はすべて"わかっている"。心象世界に刻まれたイメージは変容することがない。強い形というのは網膜に焼きつくもので、俺が一度見ることができたなら、それが一つの真実である。
Roxの身体は星屑でできた宇宙でできており、ブラックホールを内部に持っている。体内に含まれる6900個の宇宙を一つずつ構成規則に従って6900回切っていくことで倒すことができるということが読み取れた。
「あまり人間じみた身体構造ではないようだ」と俺は呟く。〈seeker〉の中には、このような肉体変異を経験している者は珍しくない。正直、〈seeker〉は"長生き"だから、途中でおかしくなってしまう者は多い。彼は落ち着いているように見え、紳士的ではあるが内なる殺戮衝動の濃度は極めて高いと言える。まともな人間であれば、浴びるだけで気がふれるだろう。
「おや、君には私の内部はどのように見えてるんでしょうか?」とRoxが尋ねる。

「ん?あぁ……なんていうか、宇宙のゼリーみたいだな。キラキラしてて柔らかいけど、異質な感じ」と俺は答える。 

「興味深いですね。あなたに私が斬れますか?」
「どうだろうな〜、運が良ければ、まあ斬れるかもな」と俺は少し考え込みながら答えた。
正直なところ、〈seeker〉との戦いは個々の能力の相性や、空間、運などの不確定要素がかなり関わってくる。俺としても、この戦いに勝てるかは確証がない。俺は割とここ200万年ぐらい、戦いに勝つことを追求するよりは構造の分析に費やしているのもあり、確信がない。俺は焦燥や不安、殺戮欲求や絶望もなく、沈静した時間を過ごしていると言える。
それはとても穏やかである一方、緩慢と俺を蝕んでいる気がする。戦いに勝つのは、俺にとってはもはや当然の義務であり、枷でもある。無邪気に競うことを喜びだと捉えていた、あの感性を取り戻すことができれば、俺はまた生を実感できるのだろうか。
さて、ここで求められる戦い方は、オーソドックスに6900回彼を切断することだろう。理論上はそれで勝てるが、実際に6900回も彼を切断するのは、あまりにも非現実的だろう。速さに特化した〈seeker〉や即死技をもつ〈seeker〉ならともかく、俺の技はなんというか、守りの姿勢に入っている気がして、Roxを倒すには至らないと思う。

「あれ、どうしたんですか?もう終わりですか?」とRoxが彼自身の重力を操作して宙に浮きながら俺に話しかけた。Roxは早く戦いたくて仕方がないようだ。
「いいや、まだこれからだ。まだ策は残っているから、安心してくれていいぜ」と俺は嘯く。
内心、俺は心が揺れているのを感じていた。しかし、それを認めてしまうと弱く、脆くなってしまうような気がした。脆さと硬さを渡す危なげな橋を綱渡りして歩いているような気分だ。深い谷底が俺を引き込もうとしているように思えた。
俺は意識を現実に戻し、おもむろにスケッチブックとペンを取り出し、Roxの構造を軽くスケッチした。
「こんなときにお絵描きですか?」とRoxは余裕ありげに尋ねる。
「ああ、まあな。人間の視覚は360°見渡すことができるだろ。でもこれって、結局広がった世界は無限の景色を呈するから、景色と視点の固定ができないんだよ」と俺は語り始める。
「なるほど。続けてください」とRoxが話を促す。
「そのことは、広がった景色だけではなく、人間や存在物の構造についても言えると俺は考えている。様相が時間と視点ごとに変化するなら、時間と視点を固定すればいい。こんなふうにね」
と俺はスケッチをRoxに見せる。
紙には抽象的な紫と黒の図形のパターンがいくつか書かれており、それらはある一つの方向に収束している。
「かなり抽象的なんですね。でも独特の世界がありそうです。」とRoxはコメントした。
「ああ。こういうふうに示すことで、構造は"氷漬け"にされるのさ。無限に展開する構造を、説明言語は追おうとするが、説明しようとすればするほど、言葉は"後退する"。構造を示すことは、構造を閉じ込めることにほかならない。閉じ込められることは、規定されることを意味するんだ」
「なんだか、抽象的でわかったような、分からないような感じです」
「まあ、"後ずさってる"からな、仕方ないさ」
と俺は答えながら、スケッチを通してRoxのこの世界における座標を特定していた。座標が定められたということは、方向と力を持ったものをぶつけることができるということである。

もっと、俺は楽しまないといけないのだ。
戦いとは、もっと生き生きとしたものであったはずだ。俺は生きるために戦っていたのか、戦うために生きていたのか。いつからかその境界線は曖昧に、ぼやけてきた気さえする。
世界の窓であるこの目が、行為に対してどのような現実を提示するのかを試さないといけないと俺は思った。
俺がブラックホールにブラックホールをぶつけるとどうなるんだろう?
そして俺はブラックホールの構造をRoxにぶつけた。〈seeker〉とはそういうものである。
⭐︎⭐︎⭐︎
〈Roxの場合〉
私は一方的な破壊行為に飽きていた。私の前で、存在物は非常に脆く、たとえその外殻が硬くとも、彼らは容易く彼ら自身の"重み"によって墜落していく。私は敗北を知りたかった。自分自身の尊厳が脅かされるような、焼けつくような感情を欲していた。勝利によって真実を積み上げていくことよりは、目の前の快楽を思い切り楽しみ、そしてふと我に返っては虚しい満足感に襲われていた。私は、"足りない"ことをよく知っていた。
世界がKの放ったブラックホールによって静止するまでは。もともと疑問に思っていたことではあった。私、とは何だろう?それがブラックホールであるなら、もう一つの自分に相対したとき、私は私でいられるだろうか?
ブラックホールは急速に私に近づきつつあり、私を引き込もうとする。私もまたブラックホールを引き込もうとし、強い二つの力がぶつかり合った。私は、凄まじいエネルギーの奔流を感じた。二つの力はゆるやかに結合し、無限に膨らんでいく。二つの力が合わさってできた一つのブラックホールは、文字通り世界のすべてを飲み込んだ。
世界は夜のように暗くなり、生き物が死に絶えた死の匂いが、世界に生き物が存在していたことを告げている。静けさが支配した世界で、雨のようなものが降っている。それは破壊の痕跡であり、悲鳴のようでもあった。生き物が死に絶えた世界で、それは悲劇的で美しかった。
今、私は世界になっている。あるいは世界が私になっているとも言える。静かに渦巻く内部のエネルギーが、私が生命であることを物語る。私の存在は、私自身に依ってのみ証明される。何者にも毀損されない正しさ、それは私らしい真実の積み上げ方だと思った。
ブラックホールの全容を捉えようと世界の裏側に手を伸ばしてみた。すると、誰かが私の手を掴んだ。どうして。一体誰がここに存在することができるんだろう。私は私以外の他者との遭遇に緊張しつつも、それが誰なのか確かめずにはいられなかった。そして私は予想しなかった存在を目にした。それは私自身であると言え、私自身でないとも言える存在であった。全く同じ顔をしているがその存在形態は異なるものであった。
『私がAという選択をした時、同時に私はAをしないという選択をしている。そうした選択の連続の結果が今の私を作っている、ということになるわけだ。しかし果たして私は私なのか。どうして選びとられた側だと私は判断できるのか』

昔読んだことのある文章がふと脳裏に浮かんだ。その存在はまさに、私が選択しなかった「私」の"あり得た自分"の姿だった。彼(あえてこう呼ぼう)は挑戦的にも私を「切りつけた」。私は彼の攻撃に対抗しようとしたが、彼が私に触れるたび、私の存在はバラバラに千切れていく。文字通り私は数千個の欠片に分解されていく。そのさなか、私はこんなことを思っていた。私とは、今考えている自分か、あり得た自分か、選び取った自分なのか、そのどれなのだろう、と。究極的に同一の構造体は互いを消し合う。それは〈seeker〉が〈seeker〉を殺して真実を積み上げるのと同じ理屈だ。同一のものを消して、己が本物であることを証明するのだ。
Roxは最期まで穏やかに微笑んでいた。そして、やがてRoxを構成するすべてが消え、Rox'だけがあとに残った。
〈Mu_Kの場合〉
俺は興奮していた。世界が動き出したと俺は思った。自己を拡張していく黒い世界は、"世界"を吸収し続けていた。俺の目に映っていた風景が、ぐにゃりと曲がりながらそこへ吸い込まれていく。俺は膨らみ続けるブラックホールによって、座標を失い、意識が混濁する。生命の世界が遠い。俺は自己の存在を確認するために、今いる位置を確認したかったが、分からなかった。俺はいまどこにいるんだろう。おそらく、世界と世界の狭間に俺はいる。非存在が存在へと姿を変える瞬間のような場所、或いは存在物が非存在へと変容する場所のように思えた。自己の存在を規定するのが魂のある位置の座標だとしたら、俺は俺が存在しているのかを疑い、生きているのか、死んでいるのかを見失ってしまう。
俺はこれまで観察した魂の持ち主たちのことを考え始める。彼らはあの世界に、たしかに"存在した"。たとえ確固たる証拠がなくとも、俺はあの人たちの構造を見てきたんだ。しかし、この世界のどこにも、彼らを物語るものがない。彼らは今どこにいるんだろう。座標を失った魂はどこへ行くんだろう。
俺は傷心的な気分になり、空間のバグスポットで、一人思考の渦に飲み込まれる。俺って、存在って、世界って、なんなんだ。ああ、分からない。ただ一つ言えるのは、俺も、おまえも、皆孤独なんだろうということ。たとえあの強力な引力の使い手であるRoxでも、誰とも座標を同一にしていない。誰も座標を共有していないし、共有できない。座標を失えば、また次の座標が割り当てられるが、同じ座標には二度と出会えない。俺たちは死にながらにして生きている。或いは、俺たちは生きながらにして死んでいる。最後に残された、俺たちにできる唯一のことは、形を示すことだ。世界の網膜に、熱を焼きつけよう。
俺は世界のすべてが刹那的で独立したものに感じられ、座標を失った今、やっと世界を愛することができる気がする。そうして俺はゆっくりと目を閉じて、次の世界のはじまりへと身を委ねた。


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