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言葉にしてしまうことの虚しさと喪失感

皆さんこんにちは!言葉、使ってますか〜???
(防御シールドを折りたたむ)

はい。
人間は言語を習得し、それを用いて非言語的思考を言語的形式で表現し、思考を認識し、また他者と共有している。
言語によって表すもの、それは天気や動作、要求などごく一般的で簡単な受け答えから世界認識の一端に至るまでかなり幅がある。

一般的に(書きながら一般的って何...となっているが)年齢が上がるにつれ、思考内容や表現形式はレベル、ステージが上がっていると言える。言語の使用とともに回路が強化され、思考が洗練されていくということが言いたかった...(←推敲はしないようだ)

それってなんでかなーと考えていた。
現実、今ある状況や取り巻くものを一つひとつ言葉で規定したり、捉えたり、といったかっこう時間のかかることをやってるからだと気づいた。
認識と言葉が(ある程度)対応しているというか、言葉に現実を合わせるというか...

言葉とは何だろう。言葉は、自分自身の認識を認識するためにはたらくだけでなく、他者に解らせる、認識を理解してもらうためにも使われる。だから、言葉とはある程度認識、イメージの共有を前提にしていると言える。

そういった言葉によって世界を認識するということは、自己の見ている世界を他者にも見せることができる、いわば共有された世界、均質化された認識に"成って"しまう。

はぁ。😭

もし、言葉によって世界を捉えず、感覚のみで世界を捉え(それはその非言語的認識が存在することを知覚できない)ていたら、その認識は"閉じて"いる。だから、いくら表層上の言葉で表現しようとしても、その言葉は力を持たない、持てないのだ。なぜかって?それは言葉の(本来的)力とは、理解させることなのだから。(自己にも、他者に対しても)

言葉が力を持つのは、状況と言葉が完全に一致して認識が共有されたときなのだ。

言葉が力を持つことは果たして"良い"ことなのだろうか?
なんとなく、この世界では言葉で世界を区切り、〇〇とはこういうものです、と言明できる者が"良い"とされている。賢いと言われたり、そういうことが求められてる気がする。

だけれども考えてもみてほしい。
それってほんとに良いのかってことを。

目に見える言葉を使うということが"自分"を持っていて、言葉で表出、表現できないことは"自分がない"のだとْさًれがَُちٓである。

目に見えているものだけが、すべてだなんて...そんな。😭バカなことがあってたまるか。(が、実際そのような現実は存在している)

0.0.1 なぁ、思い出してくれよ

思い出してくれ。みんな、そんな、言及できる、見えてるものがすべてなんて嘘だって知ってるはずなんだ。
自由帳1冊まるまる迷路を描いたりしていた、世界が共通言語で繋がっていたあの時期、言葉を必要とせず理解できた時期。もうそれは言語世界が豊かになるにつれ、失われていくものなのかもしれない。
繊細でやわらかい、少し世界のざらざらしたところに触れると砕ける、結晶のような内的世界は損なわれる運命にあるのかもしれない。

0.0.2 削られ、損なわれていく自己

一つ言葉を知ると同時に、一つ内的辞書からより広範な表現が削除される。

言葉で世界を噛み砕けることで、他者と関わることはできるようになる。が、共通部分というのは自分を出せない。
理解してもらえる反面、それ自体、固有の価値が失われる。

他人とかかわり、その代償として内的固有性を失う(忘れる)か、
固有性をまもり、孤独に世界に立つか。

0.0.3そして無になった

自分が秘めて、決して空気に触れさせなかったこと、それを言葉にし、他者の目に触れさせ、ُ「理ْ解ِしٰてِもُらِいُたい」と思ってしまった。

0.0.4無機質な核

人間には、それぞれ核と言うべき輪郭の中心を担う内容がある。形、性質がそこに一つの形式で表すことができる。(それはきわめて抽象的、非人間的、無機的であることが多い)(多いと言っても今のところ5人分くらいしか知らないが)
本来それは表されてはならないものである。形を表すということは、自己はその外に出ることができず、その輪郭に閉じ込められてしまうからだ。

言語の認識の枠組みは、それすらも言葉にしてしまう。

0.0.5部分的な自己の消失
ゆるやかに自己が空気に触れて死んでいくのが分かった。
表向きは快活になった。あらゆることが言葉で切り分けられ、何かを言明できる。その一方で、暗い世界で床にうずくまっていた自己が徐々に輪郭を失い、明るい世界に溶けていくのをなすすべもなく見つめるだけであった。

続くかもしれない。

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