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藤子・F・不二雄の作劇術に迫る/考察「ひとりぼっちの宇宙戦争」

「週刊少年サンデー」1975年37号

藤子・F・不二雄先生は、物語の作り方として、アイディアの種をストックしておき、それを複数掛け合わせることで、一本の作品を作り上げる、というようなことを語っている。

それがどういうことなのか、最もわかりやすいテキストとして、いわゆる「少年SF短編」シリーズの代表作である「ひとりぼっちの宇宙戦争」を取り上げて考察していく。

まずはF先生のSF短編について確認しておこう。

著名な話なのでざっくりと説明するが、デビュー以来少年少女に向けた漫画を描き続けてきたF先生は、年齢層高めの劇画タッチの漫画が主流となっていく中で、スランプに陥っていたと言われている。いまF先生の著作歴を眺めると、流行に左右されない首尾一貫した作品群に恐れ入るわけだが、その当時のF先生としては、ヒット作が思うように生み出せないことにそれなりの落胆を感じていたらしい。

特に「ドラえもん」が生み出される直前が最も低迷していた時期で、このタイミングで初めてのSF短編が描かれた。「ミノタウルスの皿」(1969)がそれで、掲載誌は「ビックコミック」。絵柄はそのままに、描写については大人向けを意識したハードな価値観逆転もののSF短編となっている。この作品についてもいずれ考察の対象としたい。

これに手応えを感じてSF短編という新たな武器を手に入れたF先生は、「ドラえもん」を生み出して再び人気を急上昇させていった中でも、短編を書き続け、1975年には少年誌においてもSF短編を発表する。それが「ポストの中の明日」である。大人向けの短編タイトルとは一線を画し、物語は悲劇的に進むが、結末は希望を感じさせるジュブナイル感満載の内容となっている。この読後感の良さと、掲載誌が少年少女向けという特色の短編を後に「少年SF短編」シリーズと銘打った。ちなみに大人向けは「異色短編」と呼ばれる。

本作「ひとりぼっちの宇宙戦争」は、そんな少年向けの第二弾として発表された短編作品だ。アイディアの種の掛け合わせによって生み出された傑作である。

まず、SF的な元ネタとされるのは、短編SF作家として高名なフレドリック・ブラウンの「闘技場」(1944年発表)と言われている(本稿を書くにあたり事前に読もうと思っていたが、いまだ入手できていない。手抜いてすみません)。二大国の星間戦争において、一人の代表者が選出されて、星の命運を握って一対一の格闘が行われる、というストーリーで、まさしく「ひとりぼっちの宇宙戦争」と話の骨格は一緒。

ところがこの設定を、どこにでもいる空想好きな少年を主人公に据えることで、F先生ならでは少年漫画としてしまう。本作は「闘技場」のネタを少年目線に落としたことも発明だったが、そこに「火事場のバカ力」という人間の奇跡をテーマに加えて、伏線~オチのラインを構成することに成功している。本作は、【「闘技場」×「火事場のバカ力」】というアイディアの種を重ね合わせた作品となっているのだ。

少し作品を追っていこう。

冒頭、新聞部員の鈴木は、UFOを見たという源さんの取材をしている。源さん曰く、驚いてその場にあった岩を持ち上げて投げつけたらしいのだが、その岩はびくともしない大岩であった。鈴木はこの話を題材に、次号の学校新聞でUFO特集を組もうと提案するが、UFOはおろか、大岩を投げ飛ばしたことが胡散臭いと指摘される。新聞部の部長は、そういうことは火事場のバカ力として知られた現象であると庇ってくれるが、学校新聞には相応しくないと却下されてしまう。

この火事場のバカ力という話題は、非常にわかり易い伏線として印象付けているが、その後は巧みにこの話を避けて進めていく。この塩梅は良く出来たハリウッド映画の脚本のようだ。

鈴木は、新聞部に向いてないと不貞腐れるが、部員のエミちゃんが「漫画家を目指したら」などと鈴木を優しく励ましてくれる。エミちゃんはこの後も腐った鈴木を救ってくれるが、特に二回目の登場では、セリフなしで鈴木を励ます描写となっていて、この積み重ねが、主人公の気持ちを最後に奮い立たせることに繋がっている。見事な感情的な伏線だ。

鈴木が部屋でマンガのアイディアを考えていると、謎の男二人組が時間を止めて現れ、これから起こる「戦争」のルールを教えてくれる。二人の会話で設定が自然に読者にわかる仕組みだ。

そして翌晩12時。決戦の時はくる。武器は事前に用意されていた剣と盾。時間の流れが止められ、落ち葉が空中に留まっている。そして、現れた戦いの相手は、自分そっくりのクローンであった。

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クローンは最初から好戦的だ。感情が無く、使命のみを果たそうとするロボットである。この決闘は、互いの力が同一であることがポイント。知力・体力が同じであり、戦闘力に差異がないのである。

闘いの中で、クローンの攻撃をうまくかわして、気絶した相手を刺すチャンスが到来する。ところが鈴木は非情になりきらず刺すのを躊躇する。そこに目を覚ましたクローンは、隙ありとばかりにいとも簡単に鈴木の腹に剣を突き刺す。二人の感情の有無が一瞬で対比される名シーンである。戦闘力には差がないが、感情が人間の力を発揮させないのである。鈴木はこの戦いは不公平だと考える。

本作読み直しているときに、このシーンで将棋の電王戦を思い出した。感情のないAI将棋は、それまでの手の流れを無視して、その時最善と思われる手を指す。余計な感情を排することで、本当の最善手を見つけ出す能力に秀でているのである。仮に同じ棋力の将棋ソフトと対局したとしても、人間はその感情によって不利となってしまうのではないだろうかと思えてくる。

鈴木は劣勢に立たされる。この戦いは最初から不利だったのだと、気持ちも萎えていく。そこに宇宙人の声が言う。君たち人間だけの武器がある。だからこの戦いは平等なのだと。ここで本作のテーマがいよいよ浮かび上がってくる。

ところで、この戦争に地球側が負けたらどうなるのか。宇宙人は言う。もし負けたら、地球人は奴隷にし、ペットにし、食料にすると。鈴木は逃げ込んだエミちゃんの部屋で負けを覚悟するが、そこでエミちゃんが奴隷に、ペットに、食料になることを想像して一念発起を果たす。鈴木はクローンと刺し違えて引き分けに持ち込み、地球に再試合のチャンスを得ようと考える。

エミの庭で最後の戦いとなる。勝負は一撃で決まる。ところが鈴木は、盾をどこかに置いてきてしまっていた。鈴木は剣を構えて立ち向かうが、クローンは盾でその剣先を受けようとする。そしてその瞬間ー。

鈴木の剣は、なんとクローンの盾を突き破り、相手の腹を突き刺していた。これが火事場のバカ力…。クローンになくて人間にあるもの。それは時として信じられない力を発揮させることのできる感情の存在なのであった。人間を不利にも有利にもするもの、それが人間の感情であり、いわゆる人間らしさ、というものなのである。

SF設定を「闘技場」から拝借しながらも、主人公を思春期の少年に据えて、「人間の感情」というテーマを物語に通底させる。アイディアの種を掛け合わせるというF先生の作劇術が見事に表れた一本である。そしてこの技術が分かったところで、私たちは容易にマネすることはできない。F先生の天才ぶりが逆に際立つのであった。


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