「楽しそうだね」と言われた日
仕事を増やすと、増やした仕事の分、心配ごとも増える。
心配したくないからといって、仕事をしないわけにはいかない。
しかしながら、闇雲に仕事を増やしても、成果が出なければ意味が無いので、仕事は厳選した方が良い。
けれど、何がヒットするか分からない世の中で、ある程度は仕掛けを増やしていかないと、成果にありつけない。
だから目一杯仕事を増やしてしまうのだが、その分目一杯心配ごとも降りかかってくる。
・・・と、こんな風に僕の頭の中はグルグル回っていて、いつも落ち着かない日々を送っている。
会社のため、自分のため、ユーザーのためと、一生懸命にアイディアを練って、人と協同して、何とかコンテンツを形作っていく。
僕の扱うエンタメコンテンツは、生み出すまでに時間がかかり、それを世に出すにも手間暇かかる。
一人の力でできることはたかが知れているので、いつも誰かと協力して動いていかなくてはならない。
それには意思疎通が必要だし、隅々までの確認も怠れない。
また、ただ努力するだけでなく、モチベーションを高める技術を身に着けたり、適度に心身を休ませることも考えなくてはならない。
いつもいつも、考えることが多すぎて、てんてこ舞いである。
そんな日々の中で、久しぶりに会う友人とランチをして近況を大いに語ったのだが、そこで言われたひと言は、「楽しそうだね」であった。
そう言われて、「そうか、僕は楽しいのか」と、思った。
確かに、僕は毎日、喜怒哀楽をまき散らましている。
うまくいったと喜び、上層がなってないと怒り、やるきれなかったと後悔し、感動したと言って泣いたりする。
いつも何かに注力し、何かに悩み、何かに喜び、あちこちと動き回っている。
それはいかにも充実している人間のように見える。
今の自分は、身に降りかかってくる心配ごとを振り払うのに精いっぱいだが、その様子は傍目に楽しそうに見えるのだ。
実際に、それは楽しいのだろうと思う。楽しむ余裕はないが、充実しているような気はする。後で振り返った時に、楽しかったと思えるかもしれない。
それはまるで育児みたいだ。赤ちゃんの世話は苦労だらけだが、終わってみれば、それはかけがいのない楽しい日々だった。
ま、今も手がかかって大変だが、これもいつかは楽しい思い出に早変わりするのだろう。
充実した日々を送りたいと、若い頃考えていた。
実際に今は充実している。が、充実の最中は心から楽しめないものとは考えもしなかった。心から楽しめないことを含めて、充実と言えるのだ。
僕は明日からも悩み続けるだろう。一つの悩みが解消しても、また別の悩みが訪れるだろう。それは仕事人生が終わるまで延々と続くに違いない。
けれど周囲の人が「楽しそうだね」と言ってくれる状況なら、それは恵まれた環境にいるということなのだ。
だったら、最大限に楽しまなきゃ損だ。心配すらも大きく包み込んで。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?