著者紹介~藤子Fと歩んだ日々!

先日、100本の記事が溜まったことを記念して、これまで書いてきた記事の索引(INDEX)を作成しました。その時、著者紹介(自己紹介)をきちんと書いておくべきだと思いまして、今回はその記事となります。


1974年生まれ。この年は、ミスタージャイアンツこと長嶋茂雄が引退し、後にその長嶋と共に国民栄誉賞を受賞する松井秀喜が生まれた年です。

藤子・F・不二雄先生にとっては、前年に一度目の「ドラえもん」のTVアニメ化が失敗し、漫画も打ち切りの話が出ていた時期となります。しかしこの年、「ドラえもん」のコミックが一気に6巻発売となり、これをきっかけに人気がうなぎ上りとなっていくことになります。また、年間180本以上の作品を残した八面六腑の大活躍をされた一年でもあり、僕はこの年を藤子F奇跡の年と呼んでいます。

そして、1979年4月、僕が幼稚園入園とともに、二度目の「ドラえもん」のTVアニメ化がされます。僕はこの大山のぶ代版の「ドラえもん」は最初から熱心に見ていたようで、微かな記憶ではありますが、幼稚園でドラえもんごっこを主導しておりました。

翌1980年3月、ドラえもんは「のび太の恐竜」で初めて映画化されます。そして、僕が初めて見に行った映画も「のび太の恐竜」となりました。ちなみに二回目に行った映画は「のび太の宇宙開拓史」で、三回目が「のび太の大魔境」となります。

小学校に入ってからは、藤子不二雄のアニメ化が一大ブームとなり、その全てを毎日毎日食い入るように見ていました。その頃、月~土は帯で「ドラえもん」や「忍者ハットリくん」が放送していましたし、日曜も30分の藤子枠がありました。

合わせて、「ドラえもん」などのコミックも大量に買ってもらいました。今でも実家に残されていますが、本当にボロボロとなっています。繰り返し繰り返し読み込んでいたのです。

ただ、そんなに大好きだった藤子作品ですが、小学校卒業の頃になると、急速に興味が失われていきました。映画も「のび太の日本誕生」あたりまでは熱心に見ていたものの、その後は惰性となってしまいました。マンガで言えば、興味は「週刊少年ジャンプ」に徐々に移っていきます。その頃のジャンプは、とにかく凄いラインナップだったのです。

また、アニメで言えば、中学入学あたりからはジブリ作品には相当ハマりました。「ナウシカ」「ラピュタ」「トトロ」は残念ながらTVで見たのですが、その後の「魔女の宅急便」からは全て劇場で見ています。魔女宅は、近くの映画館での上映が相当遅れることが分かり、電車を乗り継いで3時間かけて見に行きました。住まいが田舎だったのです。

でも、この田舎住まいで将来の都会暮らしに憧れていたということが、魔女宅のキキの旅立ちと重なり、今でも最も好きな映画となっています。この映画を機に荒井由実を聞きまくることにも繋がります。

高校では平凡な学生生活を送りました。熱心に打ち込んだ部活もなく、趣味もなく、具体的な将来の夢もありませんでした。勉強もそれほどでしたから、浪人もしてしまいました。

浪人は覚悟していたことだったのですが、不思議とそれが決まった時、ショックを受けました。実は高校入学くらいまでは成績も相当良かったので、いつの間に何も無くなってしまった自分に気付かされたからです。

浪人生活は、予備校に通い、完全な勉強漬けとなりました。何もない自分という状態を少しでも逃れたくて、かなり熱心に勉強したと思います。毎日国語と英語の長文を読む、日本史のノートを作る、これを課して、割り合いに楽しく勉強ができたように思います。

勉強ひとすじの一年間を過ごす中で、「ゾーンに入る」感覚を身につけました。例えば現代文の長文を読むときに、スッと文章の中に心が入り込み、周囲の雑音が全く聞こえなくなります。スラスラと内容が頭に入ってきて、それから設問を見ると、全くつっかえずに答えを出すことができます。国語はセンター試験用のテストでは満点を出せるようになりました。

このゾーンに入る感覚は、スポーツとか勉強などに熱心に取り組まないと身に付かないものと思います。この能力を使って、大学では教科書の一夜漬けでテストを突破したことが何度もあります。まあ、これは褒められたものではありませんが…。ともかく、読書の能力が一気に上がったのは事実です。

大学では、文科系のとある部活に入りました。今回、ここでは記しませんが、何かとカッコつけようとしていた高校時代の自分の殻を破った、見た目ダサいけど本当はやりたかったことでした。ここで極めて個性的な面々と出会って、今思えば刺激的な日々でした。世の中色んな人がいる、そしてそういう人たちともきちんと向き合わなくてはならない。そういうことを体得しました。

そして専攻は法学部だったのですが、一年であまり授業に行かなくなり、不真面目な学生だったとは思います。入学してすぐに彼女ができたりして、それなりに充実していたのですが、その彼女とも一年で終わりとなり、それきっかけなのか、大学から足が遠のいてしまいました。

で、何をやっていたかというと、アルバイトと映画鑑賞です。アルバイトは塾講師をメインとしていました。時給単価も高かったし、子供相手が得意だったということもあります。勉強も高校入試レベルまでだったら自信もありました。短い時間でもそれなりに稼ぎ、空いた時間はひたすら都内の名画座を巡りました。年間300本は映画館で観ていました。この辺りは別の記事にもしたいと思います。

大学時代、基本的に時間は有り余っているので、本も相当読んでいました。小説が中心ですが、とにかく手当たり次第という感じです。そんな中、半ば気取って神田の古本屋なんかを巡っていたのですが、そこで藤子マンガに再会します。

小学校の頃創刊された、藤子不二雄の初めての全集となる「藤子不二雄ランド」というシリーズがあり、これは毎週金曜日に新刊が出ていました。自分の中の藤子ブームが去って、全集も買わなくなってしまっていましたが、その藤子不二雄ランドの中古本が山積みで売られていたのです。

まだ藤子F先生もご存命で、数年後にはかなりの希少本扱いとなってしまうシリーズでしたが、その時は定価以下で売られていたのです。これを僕は買い集めました。読んだことのない作品にも多数出会いました。

子供の頃好きだったものは、やはり大きくなっても好きなもの。藤子熱が再燃し、今度は大人の読み方で、藤子作品を読みまくりました。深読みもしましたし、各作品の批評を書いたりもしました。結果、子供の頃と大人になってからの2度読みをしたことで、F作品の厚みを知ることとなりました。

ここで少し勉強の話に戻ると、大学3年から始まった「ゼミ」には相当深く関わりました。当時ちょっと進んだ考えのゼミで、個別にパソコンが支給され、レポートはメールでの提出でした。今では当たり前過ぎる話でしょうが、マッキントッシュが100万近くもする時代です。自分の中ではもの凄く画期的でした。

この頃から、本格的に文章を書くことを始めました。ホームページもHTMLを勉強して自作し、映画や読んだ本の感想、日々思っていることなどを毎日毎日書き続けました。今のnoteとやっていることは同じです。

映画を観る。藤子作品を味わう。文章を書く。音楽を聴く。変人たちと交わりあう。ゼミで法律に向き合う。塾講師で人に教える喜びを感じながら軍資金を得る。

こういう文化系の典型のような大学生活を送る中で、エンターテインメントのコンテンツを生み出す職業に就きたいと思うようになりました。それは、独りよがりのコンテンツを生み出したいのではなく、ユーザーに喜んでエンタメを購入してもらうようなビジネスを行いたい、という希望でした。

ただ、時代は世紀末。就職氷河期の真っ只中にありました。一見楽しそうなエンタメ業界は、ただでさえ門戸が狭いうえに、競争率も高く、就職氷河期の影響で定期採用を行う企業はほぼ全滅状態でした。一瞬その方向に進むことは諦めかけたのですが、やれるところまでやってみようと、就職留年の道に突き進みます。

学費を懲りずに払ってくれた両親には感謝しかないですが、この一年の間にある中規模のエンタメ企業のアルバイトの口を見つけ、そこに入り込むこと成功します。アルバイトなのに二度も面接があったのですが、不思議とするりと入社が決まりました。こういうのが縁なのだと、つくづく思います。

その後この会社が経営難だったことを知って慌てるのですが、とある企業に買収され、その時には契約社員となっていたので、運良くそのまま新しい会社へと横滑りをしました。そして、わき道から入り込んだこの会社こそ、自分が就職活動していた時に最も入社したかった会社なのでした。本当に縁とは恐ろしいものです

長くなりました。著者紹介の趣旨からは相当外れた気もしますが、27歳までをとりあえず書き上げました。

ここまでを振り返って思うのは、縁と運ですね。藤子不二雄と再会したり、いつの間にか希望の会社に入社できたり。

そこからがまた20年近い人生となっていますが、本稿はここまでとします。ここからが人生本番。次は200本の記事が溜まったあたりで、続きを書きたいと思います。

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