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届けたいエンタメの定義づけをする/エンタメコンテンツ営業心得②

人に喜んでもらいたい、楽しんでもらいたい。エンタテインメントは、必ずそうした思いが根底にあります。・・・あるはずです。

エンタテインメントと言ってもその意味することは幅広く、映画・ゲーム・コミックなどの「コンテンツ」を楽しむものから、ライブ・コンサート・テーマパークなどの体験型の楽しみもあります。

人によってはニュースやゴシップもエンタメだし、登山や料理や片付けなどもエンタメということもあり得ます。

乱暴に言ってしまえば、エンタメは人それぞれだし、人によってエンタテインメントの定義はまちまちということになると思われます。


従って、エンタメという言葉からイメージする物事は人によって変わってくることになるので、当然エンタテインメントを作っている私たちにとっても、丁寧にスタッフの考え方をすり合わせていかねばならないことになります。

エンタテイメントの王様(?)である映画を例にすれば、「スーパーマリオ」のような巨大IPを生かした作品も映画(=エンタメ)であるし、「ドライブ・マイ・カー」のような作家性の強い作品も映画(=エンタメ)となります。

今私たちが作ろうとしている映画、売りたいと考えている映画が、どのポジションにあるものなのか、どういうターゲットにとってエンタテイメントなのかを、きちんと言葉にして定義づける必要があるのです。


ところがここで問題となってくるのが、訳の分からない上司(リーダー)の存在です。映画なんてものは~~なんだよ、と暴力的に断言する人たちがいます。「映画は俳優で決まるんだよ」「もうアニメしか映画じゃないんだよ」「映画は監督で見てくれない」「もう映画館はオワコン」「純文学を描いてこそ映画」などなど。

先述した通りに、エンタメの定義が人それぞれであるので、上司だろうとユーザーだろうと、その人限りの考え方に過ぎません。大事なのは、種々の意見を、個別具体的に統一させることです。

ですが、暴力的な断言がそれらをぶち壊し、本来届けるべき相手には全く届かない事態に陥ることがママあります。

世の中に出回っているエンタメコンテンツが、まるであさっての方向を向いているものが散見されますが、僕が見てきたところでは、必ず背景に乱暴者の存在があるのです。


ちなみに、映画はこうだ、と断言する乱暴者の感覚が、奇跡的にマーケットとばっちり重なることがあります。実は名プロデューサーなどと言われている人たちは、そうした奇跡を起こす乱暴者である場合がほとんどなのです。

ところが厄介なことに、奇跡が永遠に続くことはありません。どこかで自分の感覚とマーケットがズレていき、トンデモ映画を作ってしまうことになります。

時代を一世風靡した人であっても、いずれは時代のニーズから離れてしまうという、残酷な現実があるのです。でも、一つの時代を築いた人であればあるほど、自分の感覚を信じ続けてしまい、大きなやらかしをしてしまうのです。


人に喜んでもらいたい、楽しんでもらいたい。それがエンタテインメントの本分であるならば、エンタメビジネスに関わる僕たちは、常にユーザー目線を意識して、時と場合によっては自分のやりたいこととはかけ離れたことを実行しなくてはなりません。

少なくとも「エンタメコンテンツ営業」に従事する人たちは、ユーザー、消費者の思い、求めているものを最優先して考えること、狙いをきちんと関わるスタッフで共有することが肝要ではないでしょうか。


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