見出し画像

「忖度」や「空気を読む」ことは悪いこと?

「忖度」という言葉がその年の流行語大賞に選出されたのは2017年「インスタ映え」と同時受賞であった。

振り返ると、流行語大賞で注目される前後から、社会全体でも会社組織でも「忖度」する人たちが増えている印象を強く持っていた。当時、受賞に納得した覚えがある。


ただ、もともと「忖度」は、悪い意味で使われる言葉ではない。相手の気持ちを慮って行動することの意味合いだったり、何か文章の意図を汲み取るような意味がある。

手元の新明解国語辞典で確認すると、「他人の気持ちをおしはかる」となっている。完全に良い意味なのである。

よって、2017年の流行語大賞受賞は、従来の意味とはかけ離れた悪い意味での使い方が流行したということだったのだ。


ところで、いつから「忖度」が悪い意味で使われるようになったのだろうか。本来、相手の気持ちを読み取るという行為は、日本人の美徳とされていたはずだった。

けれど、今は「過剰な忖度」というような言い回しで、相手の気持ちを読み取りすぎる、配慮し過ぎるというマイナスの意味合いとして問題視されている。

これはつまり、美徳とされる範囲は何となく決まっていて、その枠をはみ出した配慮が批判されてしまうということだろう。


同じような言葉として、「空気を読む」というものがある。

場の空気を読んで、先んじて行動することは、本来これも美徳とされているはずだった。ところが今は、「空気を読んで自己主張を止める」というような、ネガティブな使い回しをされることが多い。

これも、場の空気を過剰に読み取りすぎることの弊害が語られるようになってきたということだろう。

ちなみに、興味深いことに、空気を読めない=「KY」という言葉が、2007年の流行語大賞にノミネートされている。つまり2007年時点では、空気を読めないことは明白に悪であったのだ。ここから10年で意味合いが反転したことになる。


「忖度」も、「空気を読む」も、本来は相手の気持ちを言葉にせずともきちんと理解して、相手へ配慮していくことを意味する、良い言葉であった。

しかし配慮の過剰性が指摘されて、途端に悪い意味へと転化してしまったようなのだ。


最近ニュースを見ていたら、とある会社が「忖度の風土」があると自己批判している記事を見つけた。

これも変な話で、本来的に言えば、忖度できる人々が集う組織は、働きやすい良い会社のはずである。批判するようなことではない。

ところが、今の世の中では、相手の気持ちを先回りして行動することは、良くないこととされてしまっている。

かと言って、忖度のない会社、空気が読めない社員ばかりの会社はいかがなものだろうか。それは働きやすい職場なのだろうか。


要は、空気を読みすぎもダメだし、空気の読まなすぎもダメ。忖度するにも、適切な範囲があるはずなのだ。

そしてこの「適切な範囲」は、一人一人が頭で考え、人と共感しようとすることで、定められていくことだと、僕は考える。

よって、忖度の風土を批判対象にすること自体、頭や感情を使ってないんだろうなあと、思ってしまうのである。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?