先生と言われるほどの馬鹿でなし

先輩風を吹かす先輩

僕の一回り上の先輩、仮にY先輩とします。入社時からお世話になっていて、直属の上司になったことはないのですが、会社の先輩として色々と薫陶を受けました。

ただ、最初の数年は教わることがあったのですが、ある時から同じような話ばかり聞かされるようになって、自分の中では頼れる先輩という感じではなくなってしまいました。

このY先輩は、違う先輩から聞くところによると、入社二年目から「仕事とは」「営業とは」といった助言を一年下の後輩に語ってしまうような方で、いわゆる教え魔といいましょうか、何かと先輩風を吹かせてしまう性格のようです。


先生と言われるほどの馬鹿でなし

ところで「先生と言われるほどの馬鹿でなし」という言葉があります。意味は是非調べていただきたいのですが、僕の解釈では「先生」と呼ばれる時に侮蔑の意味合いが込められていることがある、というものです。

もちろん、教師や弁護士、プロ棋士など「先生」の呼称が相応しい職業があるわけですが、一般的な会社の中で、ある特定の人を「先生」と呼んだ場合、その裏にはたいていバカにした感情が含まれています。

もっとも会社で本当に「先生」と呼ばれる方も少ないとは思いますが、すぐに教える側に立って発言をする方は一定数いらっしゃいます。上司として、先輩としてアドバイスをしなくてはならないと考えているのでしょうが、同じような内容やエピソードが続けば、やがて飽きられてしまいます。

教えることは最小限にしておかないと、その人はすぐに「先生」の扱いになってしまうのではないかと考えます。


教えることは学ぶこと、だが…

世の中にはコンサルティングやコーチングを「する側」に回りたい人が多くて驚いています。それだけ教えを請いたい方が多いからだと思いますが、個人的にはあまり賛同できない流れです。

「教えることは学ぶこと」ですから、コンサルをすることで最初のうちは自分の勉強にもなることでしょう。けれど、教えることだけを続けていると、新しく教えることも無くなり、自分が学べる余地もなくなるような気がしています。


仕事は教わるのではなく盗むもの?

教える、教えないでいえば、僕のポリシーは仕事は盗むものだと考えています。先輩の仕事のやり方をよく観察し、どういう言い回しをしているのか、どんな文章を書いているのか、トラブルをどのように解決しているのかなどに注目していきます。

その人固有のキャラクターだから成り立つテクニックもあるので、優秀と言われる人のやり方をそのまま使っても、役に立たないことがあります。習うより慣れろで、隣で見たことを実際に実践して、自分の血肉にしていくものだと考えています。


先生と呼ばれないように生きる

noteでも会社でも、学びや気づきを誰かと共有したくなる気持ちはよく分かります。むしろ共有し合っていくことが、豊かな暮らしを送れる秘訣のような気もします。

共有のように共に学ぶという考え方は好ましいのですが、一方的に教える側にたってはいけないと考えます。

特に若いうちから、少ない経験を教材に使ってしまうと、あっという間に語るべきことが無くなってしまいます。

「先生と言われるほどの馬鹿でなし」という言葉を引き合いに出しましたが、この言葉の意味する極論は、先生と呼ばれるようになったらおしまいだということです。

安易に教える側に回らず、できる限り直面する仕事の当事者として、第一線で経験を積んでいくことを強くオススメしたいと思います。

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