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なんやかんや読んでもらいたい

読まれなくてもいい、自分のために書いていこう。

そんな風に思って、ある日突然、noteの執筆を開始しました。

あれから2年が経とうとしていますが、その間、だいぶ心境の変化がありました。いや、変化ではなく、最初から心の底にあったことを自覚するようになった、という表現の方が正しいでしょうか。


僕がnote生活の二年間で気付いたことは、「書きたい」という欲求は、「読まれたい」という欲求と合わせ鏡だったということです。自分のために書いていこうというのは、あくまで片面的で、誰かに読んでたいという考えも、最初から心の内側にはあったのです。


思えば、noteを始めてわりとすぐのタイミングで、ダッシュボードのビュー数に着目し、この増加を一つのモチベーションとして記事を書くようになりました。

ビュー数は、フォロワーの数を増やしたり、Googleなどからの流入を太くしたり、記事の回遊をしてもらったりするなど、様々な工夫があって増えていきます。

ただ言えることは、やはり読まれないことには結局のところビュー数は増えていかないということです。つまり僕はある段階から、ビュー数≒読まれる数という事実を突き止め、どうせ書くなら読んでもらいたいという気持ちを、モチベーションにしてきたというわけです。


では、読まれる文章とは何なのか

特に、何者でもない僕が、忙しいnoteユーザーやネット回遊者たちに目を止めてもらい、ある程度の時間を使って読んでもらう記事を書くことは、奇跡に近い行為と言えます。

普通に書いているだけでは、ほとんど読まれないという、恐ろしい現実が目の前にあります。

でも、実際のところは、一つの記事に対して平均650ビューくらいの数字を集めることができています。この数が読まれた実数ではありませんが、多くの方に読んでもらっていることにはかわりありません。



僕の場合、藤子作品のレビューという人様のコンテンツに乗っかった記事を量産していることが、まずはアドバンテージがあると考えています。

YouTubeなどでも、ワンピースや名探偵コナンやアメコミ等の考察動画が一定の人気を集めていますが、それらと同じパターンとなります。

正直なところ、自分の実力以上に数字を集めているなあと自覚をしております。


もう一つは、藤子コンテンツの他に、note定番の「書くこと」「振り返り」「学び」などの記事も挟み込むことで、記事のバリエーションを広げて、全体としてマニアック過ぎない構成にしていることもあります。

藤子記事は外部からの流入と毎日のようにチェックしていただいているフォロワーの方に支えていただいてますが、その他のライトな記事も書くことで、noteならではの記事を読みたいと思っている方々にも届いているのかな、と思います。


ただ、難しいのは「読んでもらいたい」が強すぎて、自分の書きたいことから、記事の内容が離れていっては駄目だろうということです。すなわち、「書きたい」と「読んでもらいたい」が一体化した時に、良いコンテンツが継続的には生み出されるものなのです。

読者の学びに繋がるものや、ためになるものを書かなくちゃ、などという気持ちになると、ある日パタリと記事を書く手が止まってしまいます。

また、noteを続けていれば、こういう内容の記事を書いておけば一定の読者が見込めるだろう、という感覚は掴めるようになります。けれど、読者を見込む記事を量産していくと、ある日、「何でこんなことに時間を費やしているんだろう」と我に返ってしまうのです。


かと言って、自己満足の文章を書いていても、読者の反応を得られず、こちらも突然ポキリと戦意を喪失してしまいます。読まれることは、書きたいに繋がるものなのです。


そうして考えると、僕のnoteは非常に良い具合に、書きたいことと読みたいことが、適度に混じり合った記事を残せているんだろうと思います。これは狙った部分もあり、偶然そうなったことでもあります。

また、藤子先生というブランドを勝手に使わせてもらっている効果が絶大です。極端な話、書き手である自分自身を全面に出さないことが、多くの人に読んでもらえる理由になっている可能性もあります。


でも、それはそれで良いのです。なんやかんや好きで書いていますし、なんやかんや読まれたいという欲求も満たしております。執筆時間との戦いはあるのですが、今のバランスを維持したまま、藤子Fノートの完結に向けて頑張っていきたいと思います。



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