俺って天邪鬼(あまのじゃく)
自分が天邪鬼ということもあって、一般的に言われていることに引っ掛かってしまうことがあります。
例えば、「動きながら考えろ」というやつ。
僕などは、考えて考えて考えて、結局動かないことも多いので、とりあえず動くことが行動力だ、などという言説には反発しか覚えないのです。
動きながら考えるのは、現実的じゃないなあ、といつも思います。
例えば、料理でも「手を動かしながら次の工程を考えろ」と言われます。いざ料理が始まってしまったら、時間との闘いにもなるので当然の話だとは思います。
けれど、レシピを考えたり、全体的なコンセプトを決めたり、材料を揃えたりと、仕込みや準備段階では、しっかりと考える時間が必要なんじゃないかと思います。
また、作業中に思わぬトラブルが起きてしまった時には、一度手を止めて、起こったことを検証しなくてはなりません。しっかりと考えるためには、一度動きを止める必要があるのです。
「動きながら考えろ」は、「動け、そして考えるときは止まれ」というのが現実的なのではないでしょうか。
あと、「俺は業界外から来たからダメなところがよくわかる」という例のヤツも苦手です。
エンタメ業界にありがちですが、異業種からやってきた経営のプロっぽい人が、この業界は旧態依然だとか、しがらみに囚われている、と言い放って、「俺がそれを変える!」と息巻く人が定期的に出現します。
古い慣習はどこにでもあり、それが革新を踏み止ませる事例も当然あると思います。けれど、業界歴が長くても、そこの場で新しい試みにチャレンジする人もたくさんいます。
外から見て変だと思うことは、中にいても変だと感じていることがほとんどです。それを部分的に打破したり、うまく宥めすかしたりして、必死に現場は生きています。
そうした小さな現場での戦いを見ずに、俺なら何とかできると、改革を標榜することはただの傲慢に思えてしまうのです。
最近聞いた中では、「人材管理は性悪説で考えろ」というヤツが非常に腹立ちました。
まずこれを言ってくる段階で、人のことを性悪説的に見ていると表明していることになるので、その時点で仲間にはなれないなあと思います。
言いたいことはわかるんです。人はその場の情緒に流されやすいですし、忖度だったりしがらみの中で、言動が誤った方向へ進むことは間々あります。人は弱い生き物なのです。
けれど「性悪説です」と言い切ってしまっては、信頼関係は生まれません。人は易きに流れることを前提に、流れてもいいように制度設計をしなくてはならないのです。
具体的に、評価軸を設定してあげる手があります。きちんと苦労した人を報いるやり方の導入です。評価めがけて行動させる方法論です。これは人の「性善説」の特色を活かしています。
つまり性善説とか性悪説などと知ったふうに言うのではなく、個別に人間を学べと言いたくなります。
「自分らしさを大事に」系も苦手です。
というのも、「自分らしくない」ということが何なのか分からないのです。心に思っていることと違う言動をしてしまうことを指すのでしょうか。人マネをしていると感じることでしょうか。人の指図で動いているような時でしょうか。
思い通りに動けないことや、自分の意にそぐわないことをやったりと、不満を覚えることなどしょっちゅうです。だからと言ってそれがイコール自分らしくないと考えるのは、逆に自意識過剰気味なのかなと思います。
短期的なところで自分の意にそぐわなかったとしても、誰かの役に立っている可能性はあります。逆に自分を貫くことで、人の人生を邪魔しているかもしれません。
自分らしさを誰もが貫けば、自分対自分の衝突があちこちで起こってしまい、結局不幸になるかも知れません。少なくとも僕はそんな風に考えてしまうのです。
これ以上続けると、相当の天邪鬼と思われてしまうので(手遅れ)、本日はここまでとします!
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