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判断を「恒常的」に誤らせないために

若手を起用するんだ、と言い出す年寄り経営者がいますよね。まずは自分がその場から降りなさいと思うけれど、そういう人たちは自分を棚の上にあげるのが上手なので、自分以外の若返りを図って満足したりしています。

そういう年寄り経営者は、まさか自分が「老害」などと陰口されているとはこれっぽっちも思わずに、自分を過大評価し続けます。

もちろんそうした方々は、自分の信念を貫いて、その結果として多大なる実績を生んだりしているので、まさか自分が老害化しているとう発想にならないわけです。


でも、ある程度のベテランとなった自分自身を考えてみた時に、そうした老害化したおじいちゃんたちを小馬鹿にしている場合でもなくなっていることに気がつきます。

自分も、キャリアを積む中で実績も残して、自分のやり方に自信を深めて、後輩たちにやり方を偉そうに伝えたりしています。けれど、その「自分のやり方」信って、本当に今でも通用するものなのでしょうか?


若く、勢いがあった頃は、自分の考えを直球で伝えて、相手方の別の信念とぶつかったりもしたのですが、そこでは引き下がらずに、相手を論破したりして、突破していきます。考えを曲げたら負けと思い込み、突き進みます。

振り返れば、まるで客観視できていない自分に気がつき、顔から火が出るような恥ずかしさを覚えますが、けれど、それって、今も同じようなことをしているんではないか、と考え、ぞっとします。


でも、自分の考えを押し込めて、周囲に合わせていくやり方を取るべきなのでしょうか。いきなり落としどころを見つける作業に走ったり、あらかじめ争いごとを避けるために一歩下がったり・・。それは本能的に肯定できないものがあります。

やはり自分としては、ガツンと自分の意見を貫きたい。別の方の信念ともぶつかっていきたいと考える、若い心も残っています。けれど、それでは小馬鹿にしている老経営者のようになってしまうかもしれない。


話がぐるぐると回りますが、要は信念を貫き続けることと、周囲から老害と思われることは、表裏一体の現象だということです。

僕の中ではこの問題の決着点は見出せていないのですが、あるタイミングを持って、判断を若者に委ねるべきときがくるんだろうなあ、ということは薄々感じています。

というのも、高い実績を残した先輩をたくさん見てきましたが、やはりどこかで判断を「恒常的に」間違う時が来るのです。

一度や二度の間違いでは、脳内で都合の良い言い訳を醸成するので、本人は「恒常的」なミスだとは気が付きません。まさか自分の判断力が決定的に衰えているとは気が付かないものなのです。


では、どうしたらよいのか。

キーワードは「謙虚さ」なのだと、今は考えています。また、別の記事でまとめますが、謙虚さを持つことが、恒常的に判断を誤ることから免れる術(すべ)なのではないかと思うのです。

この夏の自由研究としたいと思います。



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