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ゆとり世代

略してゆとり。

今ではだいぶネガティブなイメージの言葉になっているが、ゆとり教育の発案当初はそういうことではなかった。僕の記憶する中では、ゆとり教育の導入は、それまでの詰め込み教育の反動がきっかけであった。

80年代~90年代にかけて受験戦争が激化して、難関高校・難関大学の入試では、競争率が異常に高くなった。試験の点の差を付けなくてはならないので、難易度の高い設問が用意されるようになった。

歴史で言えば教科書の枠外の注釈などから問題が出されたり、数学でも一問に一時間くらいかかりそうな図形問題が出されたりしていた。

こうした難問を突破するために、当然勉強する範囲は広がり、深まった。すると当然ながら、これまで以上に受験勉強の時間が必要となった。

学校では、受験勉強以外にも、感性を豊かにしたり、体力をつけたり、仲間と力を合わせることを目的とした勉強もある。しかし「受験向け」の勉強時間の確保が優先事項となって、それ以外の勉強の時間が少なくなっていった。


そんな中、せっかく受験戦争を勝ち抜いて大学に入っても、授業も聞かずに遊びだす、みたいなことが話題となっていたように思う。

さらには、受験勉強は就職に何も役立たないとか、欧米ではもっと自分の考えをプレゼンする能力を身に付ける授業をしているなどと、これまでの詰め込み型の勉強が悪いことだという意見も出てきた。

受験勉強の過熱化の反動として、ゆとり教育という言葉が生み出されていった。詰め込み型ではなく、もっと感性を刺激するような授業や時間を増やそうという考え方が主張されたのである。


よって、ゆとり教育の本質は、授業時間を減らすことだったり、勉強内容を簡単にすることではない。授業のコマ数を余裕を持たせて、空いた時間で感受性を豊かにする時間を作ろうというのが、本来の目的だったのだ。

しかし、どこかで受験勉強第一の考えは捨てられなかった。公立学校の授業時間が減る一方で、私立ではこれまで通りのコマ数が確保された。

3.14(π)を3とするなどの教科書改訂が行れた結果、多方面から子供がバカになるなどと言われるようになり、すぐにゆとり教育は批判の対象となった。これまで詰め込み教育に散々文句を言っていたにも関わらず、である。


今、社会に出て25年経つが、いわゆるゆとり世代が部下になったりしたこともあるが、別にそれで何か不都合を感じたことはない。

世代関係なく、学力不足を感じる人間はいるし、かと言って詰め込み教育世代が感受性に難があるという話も聞かない。

そう考えると、ゆとり対詰め込みの対立は何の意味があったのだろう。


ただ、比較的ゆとりを感じて仕事をしている今の自分を考えた時に、サービス残業辞さずだった仕事詰め込み時代も悪くなかったと思う。かと言って、今の仕事の仕方がまずいとも思わない。

仕事や勉強への向き合いは、人それぞれいいだろうし、その時々でいいんだろうって、今は思うのである。



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