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変化の中の、不変

4月から僕の生活は少しだけ変化があった。

メインとなる職場が変わったこと、合わせて今後の自分の任務にも変更があったことである。

それって「少しの変化」ではないのでは・・・と思われる向きもあるかもしれないが、実質的に携わっている仕事内容は広い意味において変わっておらず、これまでの蓄積が大いに有効となることも分かっている。

新しく仕事をする人たちばかりだが、従前から良く存じ上げている人たちもいる。そして何より、同じ業界人であるということで、共通言語を持ちあわせている。

よって、職場・任務の変化については、全く心配をしていないのである。


むしろ、そのままこれまでの職場で同じ業務に留まっていた方が、心身共に伸び伸びとできなかった可能性がある。委縮した生活を強いられていたかもしれない。それは今までの仕事や人間関係から少しだけ距離を取ったことで、明々白々となった。

恐らくは、ここで一度変化を求めた方が、自分のキャリアにとってプラスに働くと、直感するのである。


もっとも、僕の転身は、自分の意志とは全く相反するタイミングで行われたことについて、モヤモヤする気持ちがないわけではない。苛立ちというか、あほらしいというか・・・。かつての村上春樹流に言えば「やれやれ」というところである。

けれど、変化をもたらしたものがなんであれ、僕は今後の自分自身がどのように変身を遂げていくかが楽しみで仕方がない。培ってきた能力を活かせる場所で発揮できることに、大いに期待しているのだ。



ところで、先日子供のピアノの発表会があった。コロナ以降初めて親戚を呼んでも良いということで、自分の両親と弟夫婦、妻の両親の3家族が集合した。僕たちの家族を含めれば、4家族の集合となる。

僕の子供がその輪の中心人物だが、彼はどの家族を向いてもまるでキャラクターが変わらない。両方のおじいちゃん・おばあちゃんに対して、全く均質の対応をしている。

これは考えてみれば凄いことだ。大人の世界になれば、自分の参加しているコミュニティにおいて、キャラクターは微妙に変化するものだからだ。

例えば、妻の両親の前と、自分の両親の前では、全く同じ人間として存在出来ない。妻の両親の前で日頃の愚痴をこぼすことはしないし、つまらない冗談(特に下ネタ)も口にはできない。これは仕方がないことだ。

けれど、素で生きている息子は、平然と同じ顔を4家族に見せている。もちろん、彼だって、思春期を超えて大人になれば、私たちと同じようにいくつかの顔を使い分けることになるだろう。でも、今は違う。


僕はそうした中でも、なるだけ自分が居る場所によって極端に自分を変えないよう心掛けてきた。多少の変化はあるだろうが、自分を偽ることだけはしないよう努めてきた。

これは言い換えれば、どんな人の前でも極端に自分の性格を変えない(歪めない)ようにしてきたことになる。目上の上司に向かっても、自分の年齢の半分の新入社員に対しても、高校からの友人の前でも、ほぼ同じようなキャラクターで居続けてきた。

それは決して容易いことではなかった。

人は一般的に変化を怖がる生き物だと言われるが、その一方で、あらゆる場所において不変のまま過ごすこともできない性質だからだ。


僕が4月に直面した変化において、なんら不安がないと先述した。これは心から思っていることである。

僕は変化の中にも、大事なことは不変を貫いてきた。それが本当の意味で人生に有効なことなのかはわからないのだが、今の僕はそれで良かったと考えている。

大事なことは、「変化の中の不変」をしっかりと持ち続けることなのだ。そんな風に、僕は確信している。



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