「検索の誘惑」との戦い
藤子作品の考察をメインコンテンツにしている藤子Fノートですが、記事作成にあたって、いつも考えていることがあります。それは、検索に(なるべく)逃げないということです。
例えば「ドラえもん」で取り上げたい作品があったとして、記事を書く前にとりあえず検索を掛けてみるということをやってしまいがちです。その作品の評価だったり、見方をネットから拾いあげて、記事に反映させてしまう、というパターンです。
僕はこれを「検索の誘惑」と呼んでいますが、何かコンテンツについて自分が一から考える前に、事前に情報収集して、一般的な感想だったり、詳しい別の方の考察を参考にしてしまいたくなるのです。
もちろん、データ的な部分だったり、関連情報については割と躊躇なく検索をかけてしまうのですが、記事の本丸となる「考察・解説」については、なるべく他の人が発信する情報を取り込まないようにしたいと考えています。
ただ、検索に逃げないと言いつつ、自分の考えだけで記事を作っていくのは、相当に勇気が要ります。
自分の見方があさっての方向を向いているかも知れないし、取るに足りない幼稚なものかもしれない。もしくは、とっくに誰かが指摘している部分を、自分がさも新しい発見のように記事化しているかも知れない。
記事を書き終わり、これで良かったのか確信を得られぬまま記事を公開するのは、何とも心苦しいものです。
ところで、なぜ自分は「検索の誘惑」に負けそうになるのか、その心理状況について考えてみたいと思います。
誘惑の要因として、まず思うのは、「自分の考えの客観性を担保したい」という欲求があるからです。
自分が正しいことを書いたのか、ありきたりのことしか書いていないのか、全く共感できない内容になっていないのか・・。第三者の視点を得ることで、自分の発信内容の収まりがいいことを確認したいという気持ちがあります。
その一方で、自己主張に「客観性」が必要なのだろうか、という疑念も浮かんできます。
考察や意見や感想は、あくまでその人の主観に基づくものであり、それについて他人の意見は関係ないはずです。自分の考えを率直に述べるべきなのに、客観性にこだわって、ネットで検索して、人様の意見をかき集めることに何か意味があるのだろうか、と思うのです。
ここまでの気持ちの流れを整理すると、下記のようになります。
なぜ人は客観性を求めてしまうのでしょうか。
今考えていることは、僕たちは物事には正しい答えが一つしかないという固定観念に囚われているのではないか、ということです。
自分の意見が人と食い違った場合に、自分の意見が間違っているのでは、と考えてしまう。答えを間違えた時に、批判されるのではないかと気に病む。そんな心理状態から、「正しい答え」を求めてネットの検索をしてしまうのではないでしょうか。
物語について考察する時、作者の意図をくみ取ろうと考えます。しかし、作者が創作に込めた自らの意図を全て語ることはありません。必ず読み手の想像で補わなくてはならない余白が存在します。
この余白部分には、作者の隠された狙いがあるのかもしれませんが、それをどのように解釈するかは読み手に委ねられています。そこにはたった一つの「正解」などはないはずです。
もっと言えば、作り手の立場からすると、自分の作品の解釈だったり、感想については、受け手に自由に考えてもらいたいと思っているはずです。作者にとって意外な考察だったとしても、それは間違っていると指摘することもないでしょう。
作者の手から離れた創作物は、受け手のものとなるのです
ただ、浅薄な考察については、「もっと深く考えてよ~」という作者の不満があるかもしれない、とは思っています。なので、考察記事と表明するからには、限界まで作品について掘り下げたいと考えています。
検索の誘惑と戦いながら、今しばらくは藤子作品と向き合う時間を続けたいと思います。
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