アイデンティティについて。
自分とは何者なのか。
思春期に突如芽生えるこの問いは、その後、長きに渡って己を苦しめる。
無論、時として光明が開け、気持ちも明るくなり、己を鼓舞するものとなることもある。
が、何かの拍子で再び同じ問いが目の前に降りてきて、悩みが再び暗雲となって頭の中に立ち込める。
僕はどういう人間なのか。今後どういう人間でありたいのか。
自問自答は、自分探しを誘引する。
自分探しは、正答のない受験勉強をやらされているようなものだ。
答えが延々と見つからないから、その分考える苦しみが長く続くことになる。
そうして、自分とは何かという答えを掴んだ者だけが、大人へのステップを踏める。
自己分析を終えたものだけが、どこかの会社に入り、生活できるお給料を貰えることになる。
それがわかっているからこそ、悩める人たちの苦しみは大きい。
そんな風にして、社会に出る直前の迷える人々は、次第に着実に追い詰められていく。
僕は迷いに迷いながらも、ある時から、目の前のことを忙しくして、深く突き詰めない生き方を選んだ。
社会の末端で、何とか人の仕事に噛り付いていくと、いつしか自分の手にも職が身に付いていく。
あれ、僕はどんなことで悩んでいたんだっけ?
いつしか、自分探しも、自分とは何かという問いも発しなくなっていく。
何となく社会に出ることだって、実際のところ可能なのだ。
時は流れて、織田信長の年齢を越えたわが身は、またまた自分探しの旅に出る。
いや、元々思春期に始まった旅は終わってはいなかったのだ。
旅が続いていることを、再び自覚したのである。
自分のアイデンティティについて、思いを巡らす。
さすがに長い人生を歩んできたので、実はそれについて、僕はとっくに知っている。
自分がどういう人間であるべきなのか、もう迷う余地がないほどに理解している。
だから、僕は正々堂々と、我が道を行かねばならない。
アイデンティティを踏み越えて、もう一歩先へと。
幸いにして、僕には信頼できる人たちがいて、心の拠り所を与えてもらっている。
人生の歩みは、まだまだこれからなのだ。
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