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過去記事の「校正」について

リライトというか、校正というか。ここのところ、一度世に出したnoteの原稿を手直しする作業を進めている。

特に今年の9月以降に書いた記事については、仕事が立て込んでいたことを理由に、特に見直しもせぬままアップしていたので、誰の目から見ても完成度が低いものばかりだった。

しばらくぶりに新作の藤子レビュー記事を作っていくことにしたのだが、そこで急に手抜きしたままの文章のことが気にかかってしまい、主にここに手を入れているのである。


改めて書くことでもないが、一つの記事を完成させるためには、以下の行程を辿る。①記事の内容を考え、②記事を書き、③校正をする。①から③を経て、ようやく記事が完成となる。

③番目の「校正」は手抜き(カット)可能なのであるが、ここを怠ると文章のレベルが格段に下がってしまうことは、文章書きの皆様には強く共感してもらえることだろう。

僕自身、一度書き終えてから、もう一度手を入れると入れないとでは、記事の完成度がまるで異なると感じている。

校正したからといって100%の仕上がりにはならないが、きちんと時間を使って校正すれば、70%以上の人前に出せるレベルには到達する感覚なのである。

最後の行程となる校正をしないままだと、下手すれば文章レベルは10点くらいのままである。このレベルだと記事単体としても人に読ませてはいけないし、一つの悪記事の余波がnote全体に悪影響を与えかねない。

よって「毎日更新」をするためだけに、慌てて取って出しをした記事については、きちんと後日見直しを行うべきなのだ。


ただ、校正をどこまでするべきなのかは、少し迷う所でもある。

しばしば過去の記事にスキを貰えた時などに、その過去記事を読み返すことがあるが、修正したい気持ちに駆られることが良くある。

誤字脱字だったり、内容が誤解されそうな文は、躊躇なく修正しているが、もっと全体的に手直しを加えたいと思った時が迷いどころなのだ。

過去の記事は、書いた時のテンションだったり、気分が大いに影響を与えている。基本的にいつ読んでも大丈夫という普遍性を持たせたいと常々考えてはいるものの、どうしても執筆時の心の内がにじみ出てしまうのである。

そうした記事を後日読み返した時に、執筆時と全く違う気持ちになっていたりするので、過去記事に違和感を覚えて、修正したいという欲求が沸き上がるのだ。


ここでの論点をまとめると、記事の普遍性を確保するために大幅な校正を辞さずと考えるのか、それとも、記事執筆時の気持ちの反映は残したままが良いのか、である。


ちなみに藤子F先生は、単行本収録時にかなりの確度で初出原稿に手を入れることで知られている。てんとう虫コミックスの「ドラえもん」などは、大幅な改定を加えて収録することが前提となっているようである。

初出雑誌の執筆は、日々の締め切りに追われながら、それこそノンストップの流れ作業の中で大量生産を行っている。手直しを入れていく余裕がなかったに違いない。

そこで、改めて過去の作品を単行本に収録するにあたっては、ここで初めて「校正」を加えている感覚が藤子先生にあったのではないかと想像されるのである。

また、手塚治虫先生も延々と描き直しをする作家として有名である。

校正を繰り返す理由が、完璧主義から来るものなのか、考え方が変わるたびに直したくなるのかはわからないが、常により良いものを残したいという気持ちがあったのは間違いないだろう。


では、僕のような一般人はどうするべきなのか。

藤子Fノートの記事は、藤子作品を読んだ方が、その作品を振り返りたいと思った時の受け皿でありたい、という目的意識を持って書いている。

素人文章ではあるが、なるべく僕独自の考えを入れたり、藤子作品を一読しただけでは気が付かないような伏線や仕掛けを知ってもらえるような記事作りを心掛けている。

そう考えていくと、読者の方が読みやすい文章であることが何よりも大事なのであって、気持ちが込められているかどうかなどは、読者にとってどうでも良いことなのかもしれない。


ただ、人それぞれ、文章の味というものがあるのも否定できず、味消しとなうような校正は止めた方が良いのかなという気持ちは残っている。勢いで書いた文章と、練り込んだ文章では質が全く異なる。けれど、どちらかが正しい文章という訳ではない。

読みやすければ、文体なども違っていいだろうし、読後感が変わっても問題ないのかもしれない。


そうして考えていくと、今の結論としては、「校正」はあくまで読者の読みやすさを上げるためという目的をきちんと押さえておくべきなのではないだろうか。



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