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子供の名前のおはなし

文字校正をする人なら共感をしてもらえると思うが、何よりも人名の誤植だけは絶対に避けたいことである。

「てにをは」のミスだったり、「ですます」の不統一などは百歩譲って許せるとしても、固有名詞、特に人の名前の部分で誤りがあってはならぬものである。

「千と千尋の物語」で名前を奪われると記憶が失われるといった「名前の言霊」を描いていたが、人の名前には、大袈裟に言えば、その人固有の霊的な呪文が込められているのである。


自分のことになるが、僕の名前は読み間違いの多い漢字が使われており、しょっちゅう間違って名前を呼ばれるので、その度に多少なりともげんなりしてしまう。

読み方だけでなく、文字として漢字を間違えられたりすると、げんなりを通り越してショックを受けたりもする。名前だけでなく、パーソナリティごと雑に扱われたような気がしてしまうからである。


そういう名前の重要さはわかっていたつもりだったのだが、先日文字校正に見落としがあって、人の名前を間違えて表記してしまう事態を引き起こしてしまった。

自分以外の複数のチェックも潜り抜けてしまい、何なら先方も見逃していたわけだが、それでも担当者として、大変に申し訳ない気持ちになったし、改めて人名だけは間違えてはいけないと肝に銘じた次第である。


さて、少し話は変わって、自分の子供の名前の話。

少し前になるが、念願の長男誕生の機会を得たときに、僕としては絶対に自分が名付け親にならなくてはならないと、心に誓ったものだった。

自分の子供へのメッセージを名前で伝えたくなったからである。

「名は体を表す」ということで、その人の名前がその人の一生に大きく影響を与えていくものだと思う。

例えば「翔平」という名前であれば、渡米して飛翔したいとチャレンジ精神が芽生えることになるだろうし、「聡太」という名前であれば、聡明でありたいと努力をするに違いない。

たかが名前だが、されど名前なのである。

そういう名前の重要性を理解している僕としては、名付け親の立場は譲れないのであった。


そこで絶対に自分が名付け親となるために、数で勝負しようというのが僕の取った作戦である。

姓名判断の文字数を参考に、片っ端から優れた画数の名前を考案し、全部で40くらいの名前を絞り出した。今風、古風、保守的、革新的と、なるべくバリエーションを広げて、敢えて迷うようなリストアップを試みた。

これによって、40の名前を提示された両家の親、親戚たちは、何の疑いもなくこの中から選ぼうという意識となった。

どの名前になるかはともかく、僕が名付け親となることが決定した瞬間でもあった。


最終的には二つの候補に絞られ、後は産まれた赤ん坊の顔を見て決めようということになった。この時点で、僕の中のベスト1と2が残っていたのは、偶然だったのだろうか、それとも必然だったのだろうか。

いずれにせよ、僕としても、家族・親戚としても、そして名を付けられた本人としても、その名となったことにみな満足している。

名前に込められた僕のメッセージが、彼の中で拠り所になってくれることを心から願って止まない。



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