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リセットボタンを押さない生き方

その昔、僕は「転校生」に憧れていた。

転校生にしてみれば、新しい環境に身を置く大変さがあるのだろうけれど、それまで生きてきた世界を一度リセットできることが羨ましく思えたのである。


僕は、小学校と中学校が合同で運動会してしまうようなこじんまりとした田舎で暮らしてきたので、いつも同じような日常が繰り返されていたし、同じような人間関係の中に身を置いていた。

この、まるで日常がループするかのような世界は心地良かったりもするけれど、少しずつ自分の個性が凝り固まっていく感覚もあった。

例えば、おバカキャラの人間はずっとお調子者でいなくてはならなかったし、学級委員長が定番の人間はずっとリーダーシップを取らなくてはならなかった。

「今日から突然変わります、これまでのことは忘れて下さい!」とはならなかったのである。

そういう環境に身を置いていた僕は、転校するたびにそれまでのキャラクターを一新できる転校生に憧れを抱いていたのだ。


その後、少し離れた高校に進学したり、大学進学のために上京したタイミングで、僕は少しだけキャラ変を試みた。高校では真面目に見られがちだったキャラを、若干ミーハーに修正した。大学では振り幅の広い人間を装って、遊びと勉強とバイトを両立させた。

ただ、僕自身の高校や大学のキャラ変がうまくいったのかどうかは、正直わからない。もしかしたら「イタイ」変化だったかもしれない。けれど、それまで積み上げられたキャラクターを一新できる経験はとても快感だった。

世の中には「高校デビュー」とか「大学デビュー」なんて揶揄する言葉があるけれど、僕には「デビュー」する気持ちが痛いほどわかる。環境が大きく変わるタイミングは、それまでの自分をリセットできる大チャンスであるからだ。


さて、大学を卒業し、就職してから20数年。この間僕は一度も会社を辞めることなくサラリーマン生活を続けている。学校でいうところの「転校」を経験していない。

会社自体が業界のM&Aに巻き込まれて変化したので、ずっと同じ環境で働いていたわけではないのだが、自分のキャラクターをガラリと変える機会は一度もなかった。

この間、リセット願望が無かったわけではない。異業種に転職したり、同業の会社に移ることで、何か自分が変化したいと思ったことは何度かある。

けれど、僕はリセットではなく、それまでを積み重ねていくやり方を選んでいる。


20年以上も同じ業界・同じ会社・同じ職種で働いてきたので、最初の頃に積み上げた土台の部分は既に腐っているかも知れないし、それによって新しく積み重ねることを阻害している可能性もある。

これまで堆積してきた古いものを綺麗さっぱり洗い流し、一から新しいチャレンジと共に積み重ねていくべきだと思ったりもする。実際、世の中に流布する自己啓発の類では、そうした新しい取り組みを後押しするような言説をよく見かける。

けれど、色々な思考の試行錯誤を経て、僕は上から積み上げていく生き方をずっと選び続けている。


僕の中で、リセットではなく積み重ねを選択する理由がいくつかある。

一つ目はリセットするのは勿体無いと考えているからだ。

人生を一本のレールに例えるならば、現在地を他者に説明する場合に、過去の軌道を示すのが手っ取り早い。軌道の延長上にある未来も伝えることができる。

今までをリセットして新天地に赴いたとしても、結局はそれまでの積み重ねを明らかにして、他者に自分を理解して貰わなくてはならないだろう。であれば、最初から積み上げたものを捨てる選択肢はないように思える。


二つ目はコツコツ積み上げた者にしか見えない世界があって、僕はそれに魅力されたからだ。

僕が仕事を始めた当初から、その道何年と言われる職人やプロフェッショナルの重みある発言が心に響いたし、ポッと出の新人には分からないベテランの境地に憧れを抱いていた。

そうした憧れを胸に、僕は営業の仕事を20数年続けてきた。この間、同じようなことを繰り返しているようでも、常に新しい経済状況やユーザーの嗜好の変化があって、それに逐一対応してきたつもりである。

その結果、常に営業という視点で世の中を定点観測してきたことや、試行錯誤を繰り返してきたことで、見えている世界が人と異なってきていることを自覚している。

コツコツと積み重ねているうちに、突然視界が開けることがあって、これは積み重ねた人間にしか見えない風景なのである。


三つ目はリセットを繰り返す人間を結局は信用できないということだ。

大前提として、新しい環境を得た時に、自分のそれまでを束縛したきたものを解き放つことには賛同する。実際に僕自身も営業からマーケティングの業務の移ったときは、長年の習慣を止めたり新しい考えを取り入れた。

けれどそれまで培ってきたことを土台にしないと、歳だけを食った新人となってしまう。なので、身動きを不自由にする束縛を解放させつつ、それまで積み上げたものの上から、また別の経験を重ねていかなくてはならない。

行き詰まった時にリセットボタンを押して最初からやり直したい願望はいつだってある。けれど本当に押すのはガラリと第二の人生を歩む決意をしたときだけにしなくては、と思う。

僕はそんな風に考えているので、いとも簡単に、繰り返しリセットボタンを押してしまう人間を信用することはできない。リセットの選択は、慎重に、厳かにするべきなのだ。


転校生に憧れた僕は、高校進学・上京・就職といくつかの節目でキャラ変をしてきたものの、仕事を始めてからは、ひたすら積み上げていく人生を選んだ。

リセット願望はあるが、いざリセットボタンを押す時は、人生で何度もあってはいけないと思っている。

もちろん、一番大事なのは積み上げることを続けることだ。自分が踏み固めてきた地面をさらに盛り上げて、まだ見ぬ風景を見たいと、そんな風に考えている。

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