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極論が好きではない

今朝、齋藤孝さんの文章を読んだ。「「浅い話」をしがちな人の共通点とは?派手で斬新な“極論”の甘い罠」というタイトルの記事である。

表題から気になる方は是非とも検索して読んでみて欲しい。

いま自分の考えていることと非常に合致した内容で、何度も首肯して読み進めた。今私が所属している組織では、大きな方針転換が図られているのだが、これが何とも極端な意見に左右されていて、個人的には非常に残念な方向に進んでいる気がしている。

これまでのやり方を変えなくてはならないという問題意識は正しいが、論理的ではない乱暴なOK/NGが横行している。乱暴な意見は、どこか浅はかに思えて、単なる思い付きに感じてしまう。深い熟慮がそこにあるとは思えないのだ。


齋藤さんは文章の中で「具体的かつ本質的」な意見が大事だと述べている。それは、世の中にある物事の本質は白黒きっぱりと分けられるものではないので、偏った意見ではなく、多面的な視点が伴った意見が大事であるということである。

ワンフレーズで切っていくことの気持ち良さ、分かり易さはあるが、物事を二つだけに切ってしまえば、必ず弊害が出てくる。

例えば病気か健康かという命題がある。血糖値が高いからといって病気ではないが、病気の予備軍であることは間違いない。不健康とは言えるが、病気とは言えない状態はよくあること。人間を健康/病気と二分割などできないのだ。


もちろん、どっちつかずの曖昧な意見も意味がないが、広く意見を集めて考え抜かれたアイディアは、「曖昧」ではなく「中庸」というべきもの、と斎藤さんは語っている。

この点に深く賛同したい。

物事を進めるにあたりどこかで白黒は付けねばならない。線引きは確かに必要。ただしそれは極論でも無味乾燥な意見でもなく、きちんと多面的に練られた「中庸」な考えから導きだされたものでなければならない。

齋藤さんは文章の中で、蛮勇と臆病の中間として「勇」の状態が良いという例えを引いている。勇気をもって物事を進めなくてはならないが、それは極論をベースにした蛮勇ではダメだし、臆病風に吹かれて何もしないのももっての外。

僕は「勇」の人物になりたいと思うのである。



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