「自分とは何か」
自己肯定感、承認欲求、自分軸、自分らしく生きる、好きを仕事に、無理をしない生き方・・・。
この辺の言葉をよく見聞きする。
言葉は多少変わっていくが、それらの「自分とは何か」系の問いは、僕の青春期からあって、誰もが経験するある種の通過儀礼のようなものだと考えている。
僕自身、振り返れば自意識過剰なまでに、「自分とは何か」「自分は何を成すべきか」、と問いを巡らせていた。
僕が就活を始めた時期は、いわゆる就職氷河期の真っただ中で、好きな仕事をするということは、遥か夢のような気がしていた。
就職を意識し始めると、急に自分が何者でもないという恐怖が襲い掛かってきた。その数年前までは、自分は何者にもなれるという自信があったはずなのに。
思ったように就活が進まず、心が折れる日が続く。いつの間にか、自分がやりたいことを公言することが憚られるようになる。
ひとまずどこでもいいから就職を決めてしまおう。そこからまた考え出せばいい、と思うようになる。
ところが、そんな腰掛けのような動機では、自分が望むような条件の会社には入れない。そもそも履歴書が書けないのだ。
グルっと回って、もう一回「自分とは何か」と心の内と向かい合わなくてはならなくなる。
こうなると、地獄の無限ループに陥った感覚となる。全てが面倒くさくなって、目先のアルバイトなんかに精を出してしまう。いわゆる現実逃避だ。
そんなこんなで、僕は就職活動に失敗し、アルバイト先のオーナーと相談して、卒業後は週6で働かせてもらうことになった。東京の真ん中とは思えないほどの安い家賃の部屋を見つけて、切り詰めれば何とか暮らせる状況を確保した。
大学に入って就職する。そういう人生の公式ルートから外れていく感覚を持った。
不思議なもので、自分がルートから外れたと自覚すると、急にもう一回自分のやりたいことを追求しよう、なんて考え出すことになった。
新卒就活時には、どうせ無理だからと公言しなかった、本当にやりたかったことを。
僕がやりたかったことは、エンターテインメントを作り上げることだった。
エンタメを仕事にすることだった。
繰り返すが、時は就職氷河期。ただでさえ門戸の狭いエンタメ業界に、正規なルートで入り込むことは不可能に思えた。
この直感は正しかったが、それはあくまで「正規」ルート、正門からの入場が難しいということに過ぎない。
必死になって探せば、裏口はいくらでもあることが分かってくる。
僕は偶然の中で、老舗エンタメ系会社のアルバイトの口を見つけ、そこに履歴書を送ったのだった。この時書いた履歴書は、初めて伸び伸び、やりたいことを書けたように思う。
結局、大学卒業一週間前に、この会社にアルバイト入社が決まり、週6で働く約束となっていたバイト先のオーナーに謝りを入れた。
困ったな…でも良かったじゃん、って快く背中を押してくれたことは今でもとても感謝をしている。
さて、一応の希望業界への就職を果たしたが、「自分とは何か」という問いとの戦いは、そこからが本番であった。
所詮は正門から入れなかった身。技術も経験もないし、人脈も度胸もない。
誰でもできる仕事を、ここから何年も続けることになる。
けれど、エンタメを作りたいという気持ちだけは、もう隠さないでいた。
何者でもない自分が、何かを作り上げるためにできることは何か。
試行錯誤の結果見えてきたことは、感覚重視のエンタメ世界に、論理を持ち込むことだった。
感覚で説得できないのであれば、数字で示す。チームの方向性が迷い始めたら、原点に戻ってもう一回論理構築する。
今考えれば、普通の仕事の方法論だが、僕自身の個性はそこだと思い至ったのである。
人の嗜好性を追求しなくてはならないエンタメコンテンツは、作り手からすると、何が正解か迷い出す瞬間が必ずある。
その迷いを解消させるために、数字や論理を持ち出して、作り手の感覚を補強してあげるのである。
アルバイトでこの業界に入り23年くらいが経っているけれど、自分が事業に貢献できる分野を掴めたことで、「自分とは何か」という問いを手放したように思う。
あくまで結果論だが、「自分らしさ」(今でいう「自分軸」)は、やはりジタバタと動いたり悩んだりする中で、ゆっくりと見つけて掴むものなんだと、僕は思う。
ところで、僕が常々気になっているのは、「自分とは何か」と迷える人々に対して、「俺のようになれ」とか「こうすれば成功する」などいったお手軽な言説が巷に溢れていることである。
「自分らしさ」は千差万別で、究極なところ答えは出ない。
答えが簡単に出ない問いを持ち続けるのは、とても苦しいことだ。
その苦しみは理解できるが、それらが簡単に消えてしまうようなこと言う人は、基本的に怪しいと考えていただくのが、僕は賢明だと思う。
すっかり「自分とは何か」と考えなくなった僕からすれば、その問いに悩める人が羨ましくすら思えてくる。
まだ自分が固まっていないことの素晴らしさは、それが失われて気がつくものなのだ。
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