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適度と過度

本日は朝ゆっくりと起きだし、将棋(達人戦)の生配信を見たり、佳境となっている大相撲を鑑賞したり、子供の習い事に付き合って外出したり、昼夜とたっぷりとご飯を美味しく頂いたりした。。

何気ない普通の休日だが、こういう平和な一日が当然のことではないことを知ったのが、この二ヶ月であった。


まず仕事が忙しすぎると、物理的に休日が潰れることになるし、頭も心も休まらない。本来、疲れを取るべき日に疲れを貯め込むわけで、疲労は蓄積されて、体力だって削られていく。

その結果が大病となるわけで、適度な仕事はしておかないと駄目だけど、過度な仕事量は禁物だということだ。

また、仕事が無くても、体調がすぐれないと、休日に物理的な休養ができたとしても、それだけの一日になってしまう。体が動かなければやりたいことに着手できないし、気力が萎えてしまうと、そもそも何もする気がおきなくなってしまう。

適度は休息は嬉しい限りだが、過度な休養が必要な場面はまるで嬉しくないのである。


ほぼ二ヶ月間、適度な生活が損なわれたことで、僕自身、30代以降は休日と平日のバランスが取れた生活をしていたのだあと、改めて思うことになった。

働き始めた20代は、全てにおいて未熟だったし、考え方は一直線だったし、能天気だった。適当ではなく、テキトーな日々を送っていたと思う。

この頃は飲み歩いたり、徹夜したりと、何かと不健康な生活を続けてしまい、結果体を壊してばかりいたし、楽しかった割に充実感が残らない日常でであった。

30代になってしっかり者の奥様をもらってからは、仕事と遊びのメリハリがつくようになって、生活のバランスが整い、あまり風邪を引かなくなった。適度な暮らしをもたらせてくれた奥様には感謝しきりである。

ただ、そうした感謝をここのところ忘れていたんだなということも、バランスを崩したこの二ヶ月で思い知ったのである。


さて、noteについてだが、昨日からこの二ヶ月近く放置されていたデータの整理を始めている。社会生活完全復帰への情報整理運動の一環でもある。

僕がnoteにおいて気にしている数値に「ビュー数」があるが、ここのところまともなF記事を残せていないので、さぞかし減少しているのかと思いきや、データを整理した結果、今も横ばいの日計を出していることがわかった。

古い記事へのアクセスが多いのがその最大要因で、過去のコンテンツの蓄積がいかに重要なのかを示すものである。

また、病気日記と化していた最近のnoteも一定数のビューをいただいていることもわかった。変わらず読んでくれている方々がいることに改めて感謝したい。


今後は9月後半以降の、書きっぱなしで手直しができていない記事のリライト作業を進める予定である。校正をしないままにしている記事が大量に残されていたことを気にしていたので、きちんとしたコンテンツに仕上げるために、少し時間を使いたいと考えている。

そして、その後に新作記事を書くのが当面の大目標。何とか藤子F先生生誕90周年のあの日から、復活させたいと思っているのだが、はたして。


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