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私たちはグレーゾーンで生きている。

玉虫色という言葉がある。例えば政治の世界では、ある政策について与野党が対立し、その結果互いの意見の中間を取るような政策ができあがる際に使われる。否定的な響きの強い単語である。

政治の世界に限らず、両極にある意見の中間を取ることは、ややもすると中途半端な印象を与える。せっかく結論を出すのであれば、白黒付けるべきだと考えたりもする。

「好きなのか、嫌いなのか」という問いに対して、「どちらでもない」という答えは、一般的に望まれない。「好きか嫌いかハッキリせいよ」と優柔不断の態度は責められるだろう。


僕も若い頃は、そういう志向であったと思う。やるならなる、やらないならやらない。中途半端な煮え切らない態度は、周囲のイライラを買ってしまうし、自分の立ち位置ははっきりするべきである。そういう風に考えていた。

ところが、20代に入って、二つのことからこの考えを改めるに至った。世の中、白黒付けてはいけないのではないかと、思うようになったのだ。


一つ目はある友人の言葉だった。その友人は大学時代によくつるんでいたが、今は健康食品や化粧品の会社経営と、カイロプラクティック技師としも働いている男である。

その友人の受け売りによれば、完全健康体を100として、死ぬことを0とした場合に、大体30くらいから下を「病気」と認定するという。一方で、数値が100の人間は実際にはいない。健康とされる人間は、100から30の数値のどこかに位置している。少し体調が悪いけれど病名が付かない場合は、数値は50かもしれないというわけである。

ちなみに「病気」と診断される数値の人間を対象とするのが西洋医学で、健康の範疇だが「病気」に近い数値の人間を対象とするのが東洋医学なのだと教えてくれた。

この友人の理論が正しいかどうかは別として、人間は0か100ではなく、その中間のどこかで位置するという考え方は、僕にとって一つの発見だった。


そしてもう一つは、大学で法律のゼミに参加したことがきっかけである。「国際私法」という比較的新しい法律学のゼミで、まだ学説が固まっていない判例など結論が曖昧な事象を研究対象としていた。

例えばある事象に対して、論理的に導きだされる結論が、どの根拠を基にするかで、真逆の答えとなってしまうことがある。一方が救われ一方が不幸となる可能性がある反面、議論によっては、救われる側が逆転してしまうケースも考えられる。

法律は人を救うために存在するのだから、答えが二分するような問題を、白黒つけていいのだろうかと、僕はこの時考えた。実際、中間的決着を導く説も出されて、それが有力だったりする。

僕はこのゼミで、法律でさえもグレーな決着を導くことがあるということを知ったのである。


友人の話とゼミで学んだ法律のこと。大きな二つのきっかけから「玉虫色で何が悪い」と考えるようになった。

▼世の中白黒ではなく、グレーの濃淡の中で生活しているのではないか。
▼0か100ではなく、50だったり20だったりするものではないのか。
▼両極端の中間あたりが居心地がいいのではないか。

この考え方の延長には、「100%悪人はいない」「結論は出さない方が良いものもある」「ワクチンは絶対に効くことはない」等といった思考が導き出される。

振り返れば、僕はこのような考えで生活をしている。


ところが、エンタメコンテンツの世界で働く身としては、この考え方は時々邪魔になる。

例えば「小説」を売っていく時に、これは泣けるのか、イヤミスなのか、作家の新境地なのか、何か切り口を一つ際立たせなくては、宣伝的な打ち出しは弱くなる。しかも泣けるのであれば、「誰もが泣ける」という方向性を示さなくてはならない。「泣けるかも」という立ち位置ではなかなか読者の手元に届いていかない。

読者に届かせるという点で、宣伝の方向性に両論があるならば、その中間を取る「玉虫色」の決着は非常に危険である。多少乱暴でも、ある方向の100%の売りを示して、勝負に行かなくてはならないのである。


ここにジレンマが生じる。

0か100の人間はいないとか言っておきながら、エンタメを売るには0か100の人間を想定した打ち出しや施策を講じていかねばならない。極端を嫌っておきながら、極端をアピールしないと求めている層に届く前に埋もれてしまう。

人は極論に流されやすい生き物である。
人は極端ではなく、中庸な人がほとんどである。

このジレンマの中で、仕事は頑張るしかない。

ひとまずはそんな玉虫色な決着で、この文章を終えることにしたい。

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