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「炎上」と「論破」が好きではない理由

絶賛夏休み中ということで、日中は子供と遊びに出かけたりしてリフレッシュしていますが、不思議とふとしたところで、仕事でモヤモヤ考えていることが頭をよぎったりします。

せっかくの休みに仕事のモヤモヤを引きずりたくはないのですが、こういう時は、思い切ってそのモヤモヤを打ち消そうとしないで、逆に文章化させてしまうと、頭がクリアになることがあります。

ということで、本日は何となく思い浮かんだことをつらつらと文章化させたいと思います。テーマは「炎上」と「論破」が嫌な理由です。


「炎上商法」とか「論破」とか、あまり好きではない言葉です。何で好きになれないのだろう・・と考えていくと、そこには目的と手段の逆転を感じるからではないかと思い至りました。

炎上にしろ、論破にしろ、何かを達成させるための方法の一つだと思うのです。


「炎上」という言葉は物騒な響きがありますが、要は賛否両論が巻き起こっている状態を指します。賛成と反対の意見がぶつかればぶつかるほど、話題性が高まって、世の中の注目を浴びることができます。

これを狙って炎上させる方法が「炎上商法」というやつです。否定派の意見が巻き起こるように、敢えて強めの表現をしたり、過激な仕掛けを施します。

炎上の目的はあくまで、口コミ的な注目を喚起して、その結果として商品やサービスの認知度を高めることです。それ自体は単なる手段に過ぎません。

ところが炎上させて、バズらせて、それで満足という人々が一定多数いて、知名度をアップさせるという本来の目的を見失っているケースが散見できます。

特に一度炎上して知名度を上げた成功体験があると、二回目からは炎上させて満足、といった状況に陥りがちです。極端な話、炎上を狙い始めたら、既に手段と目的の逆転現象が起こり始めていると言えるかと思います。


次に「論破」についてですが、論破した結果どうなるかを考えずに、言い負かす行為自体に憑りつかれている人が多いように思います。そういう場合には、大体において目的と手段が入れ替わっています。

そもそも議論において相手を論破する必要があるかどうか疑問ですが、意味合いとして相手の論旨を超える論理を作り上げて、より良いものを作り上げていこうと考えることは間違っていません。

議論とは、より良い答えを導き出すための重要な「手段」なのであって、議論で言い負かしたりすることは、本質的にはどうでもいいことです。そういう意味合いにおいて、論破という行為は、明らかに手段を目的化しているものと思います。


かくいう僕は、実は大学時代はディベートをしていたこともあり、論破が好きなタイプでした。

相手の論旨を封じていくのは痛快で、自分がその人より一枚上手な人間だと錯覚させます。

ディベートみたいな「ゲーム」では論破はありだとしても、現実的な世界はゲームではないので、相手を言い負かしても何も良いことはありません。感情的なもつれが起きるだけで、何か事象がうまく運んだりはしません。

「論破」は、議論をする人たちの人間関係においても、議論のテーマとなっていることの結論においても、全くプラスに働くことはないのです。


さて、ただいま夏休み。休みとなると逆に仕事上のもやもやが頭を巡ってしまうのですが、こうしてnoteに考えを書き連ねることで、何か心休まる感じがします。また、モヤモヤしたら書き込みたいと思います。



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