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その文章は「書く価値」のあるものか

noteを利用している中で、日々、いま自分が書いている文章が、読まれる価値があるかどうか悩んでいる方も多いと思います。

「好きなこと書いてやるぜー」とか思っていた僕も、いつしか「読んでもらいたい」という気持ちが強まっていき、それと同時に、「これって読んでもらえる文章だろうか」という疑問が浮かんできました。


多くの人に読んで欲しい、それには読む価値のあるものを書かなくては。

そんな風に思うnoteユーザーは多いんだろうと想像します。

でも、読む価値のある文章とは何なのでしょうか? 


僕は職業柄数字が大好物で、noteにおいてもどんな記事が反応あるのか、ビュー数を一つの目安としてずっと統計を取り続けています。

ビュー数はタイムラインに表示された数だから意味ないよという話もありますが、記事によってまるで違う傾向をたどるので、やはりそれなりに解析しがいのある数字だと僕は考えています。


仮にビュー数が伸びている記事が、読む価値の高い記事とするならば、実は数字が伸びやすい記事の傾向はほぼ見えているので、傾向に沿った「読む価値のある」記事ばかりを量産することは可能です。

でも、傾向と対策だけを考えて記事を書いていったとして、それは本当に「読む価値」のあるものと言えるのでしょうか。

「ビュー数が伸びる=読者がいる」という意味からすると、確かに「読む価値」のあるものと判断しても間違いではありません。

すると、読む価値とビュー数は比例関係にあるとしてしまっても良いのでしょうか?


このあたりの思考をグルグルさせているうちに、今回タイトルにしている言葉に思い当たりました。それが、

その文章は「書く価値」のあるものか

というものです。


読み手にとっての価値ばかりに意識が向かっていましたが、そもそも自分がいま書いている文章が、自分にとって書く意味のあるものなのかと問うた方が、建設的だと思い至ったのです。


藤子Fノートの解析では、読まれやすい傾向の記事が明確化されるのと同時に、これは伸びないだろうと予測される記事もわかります。

伸びないとわかりつつ記事を作るのは、なかなか気持ちが乗りにくい作業ですが、それでも藤子Fノート全体を俯瞰した時に絶対に必要な記事だったりもするので、そこはエイヤと記事を作成しています。

これはつまり、ビュー数と関係なく「書く価値」があるものと、判断していたということです。


先ほど、傾向と対策だけで記事を書いてもいいのかと、問題提起しました。

これは、書き手にとって意味があると判断すれば、堂々と同じタイプの記事を書き続けるべきだし、単なるルーティンに成り下がっているなら止めれば良い。

常に書き手である自分にとって価値があるのか、そうでもないのかをきちんと、判断するべきだと思うのです。


またまた僕の例で恐縮ですが、藤子Fノートでは、藤子レビューばかりではなく、本稿のような「文章」についての記事や、他愛のない物事を綴っています。

正直、藤子Fノートに期待されている記事ではないので、ビュー数は伸びにくいわけですが、それでもこうした記事を挟むことで、藤子Fノートが単なる解説ページに留まらない広がりのあるものにできていると感じています。

つまり、書く価値があるものと判断しています。


書きたいものを書けばいいという単純な話ではないのですが、読者のことを考え疲れたら、一度書き手としての自分に価値があるかどうかという観点を導入してみるのはいかがでしょうか。



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