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well-beingと私

皆さんこんにちは!

今日初めてリアルタイムでpoolpの講義に参加できたサリーです。

今回の講義はwell-being幸福学について。
これはpooloに入る前からずっと気になっていた講義。

それはなぜか。
それは幼少期からずっと向き合い続けてきたことだから。

関わる人みんなが幸せに生きていこう!
自分を傷付けることなく、笑って元氣に楽しく日々を過ごそう!
自尊心、他尊心を持って、生きていこう!
暗い言葉ではなく、明るい言葉で生きていこうよ!
傷つけ合うのはやめよう!
もっと穏やかにすごそうよ!
日々生きていることに感謝していきていこうよ!
決めつけ合わず、否定し合わずありのままで生きていこうよ!
枠に囚われず、自分が信じた道を歩もうよ!

そんな思いを無意識に抱いて生きてきた幼少期。

自分は結構真っ直ぐで素直で、びびりで、優しさと熱い思いを
持った少女だったと思う。
そして発想も自由。利き手もみんなと違うし、育ち方も違う。

そんな自分はこれまでいろんな人に否定されてきた過去がある。
いや、そう被害妄想をしてしまった過去がある。
自分自身で自分の人生を受け入れれなかった過去がある。
感情麻痺になり、空想に、アニメの世界に救いを求めたこともあった。

それは今でも変わらない。
ふとした時に、アニメの世界に浸りたくなる。
リアルの世界から逃げ出したくなる時がたくさんある。
現実逃避、理想追求型人間、それがサリーなのかもしれない。

うん論点がずれましたね。
私は日本の同調圧力に負けてしまうことがよくある。
その結果何回も何回も自分を見失うことがある。
本来の自分を表現することから逃げてしまう。
こんな自分を受け入れてくれる人なんていない。
そう思ってしまうことが多々ある。
そんなつもりもないのに、
人を困らせ、怒らせてしまう天才なんだ。
だからちゃんとしなきゃ、自分を押し殺さなきゃ。
自分をコントロールしなきゃ。
これまでの人生どんなけ自分にそう言い聞かせてきただろうか。

自責主義もここまでいけば病気だ。
高校生まで、自己理解、自己肯定感や自己否定なんて言葉も知らず、
ただただ日々起こることに対して、我慢し、自分を傷つけ、
無氣力になっていった日々。

その苦しみから脱したくて、幸せになりたくて、
無氣力なまま人生を終えたくなくて、
もがいた大学時代。
自己改造計画を立て、これまで溜まりに溜まった、
心のしこりや膿を摘出してあげることにした。

本当は大学時代、自分を知り、他者を知り、いろんな人との対話で
自分の心のしこりや膿を出し切ってあると思っていた。
その過程で、well-beingや幸福学のことも学んだ。
もう完全に昇華したもんだと、これで心機一転前向いて生きれる
自分らしく、みんなと幸せに生きていけると思ってた。

けど日本に帰国してから二年、気づいたことがある。
実はまだまだ昇華されてなかったんだって。
大学時代は自分の感情麻痺を寛解させ、
自分の素直な気持ちをキャッチするための準備体操に過ぎなかったって。

自分の感情を紙に書き、客観視することで、
自分で受け入れたことで、昇華されると思っていた。
けど違った。
過去に抱えた心のしこりや膿は人との心と心の繋がり、
心と心からの対話からしか昇華できないんだって。
ようやくそのことを思い出すことができた。
なぜ、思い出すという表現なのか。
だってそれは幼かった自分はその真理を知っていたことを、
私は知っているから。それを思い出したから。

昨日講師の方々のセッションをきき、
彼女たちの幸福学やwell-beingの考え方や、
心からの思いを直接聞き、私は本気で涙した。
自分がそうありたいと思い、
けど否定してしまってた、信じきれてなかった生き方を
体現して、その姿で生きている2人の女性。
2人が話す心からの言葉が、私の心を震わせた。
そして講義後、講義の内容を一緒に話した仲間との対話が
心の膿を出すきっかけをくれた。

私は小さい頃から寂しかった。
ただただずっと一緒にいてくれる人がほしかった。

ただただこの私をありのままに受け止めてくれる人が欲しかった。
愛してくれる人が欲しかった。
もっともっと父と母と家族3人仲良い時間を過ごしたかった。
守ってくれる人が欲しかった。
お兄ちゃんに守られている同級生をみて本当に羨ましかった。
両親といざこざがあった時、逃げられる場所が欲しかった。
今でも思う。
全力で寄りかかれる人が欲しいと。
支え合える人が欲しいと。
大学時代そんな思いもあり、9歳上の人とお付き合いしたこともある。
けど現実はあまくなかった。
相手どうこうより、人に甘えることに許可を出せない自分がいた。

そう私の心の膿を生成していた元凶はここにあると、
このノートを書いてて氣がついた。
私は過去24年間ずっと
人に甘えてありのままの自分で
生きていくことを許可できていなかった。
いや、その方法を知らなかったのかもしれない。
いや違うな。知っていたけど、だんだんわからなくなったんだ。

小五からの怒涛の10年間。
傷ついて傷ついて、自分の心に蓋をし、
強いことが美徳と思い、強がって生きてきた10年。
やっと強くなくてもいい、ありのままに生きてもいいよ。
自分が表現したいように生きてもいいよ。
やっとそう自分に許可を出してあげれそうだ。

繊細なことが悪いことじゃない。
それは私の素敵な個性。
ストレスにも弱いことも素敵な個性だよ。
感受性が豊か。
その個性をまずは自分が大切にしてあげよ。

人の後ろに隠れたっていい。
もっとわがままに自分に過保護になってもいい。
人間は社会性の生き物だけど、
自分を疲弊させてまで、付き合うのは違う。
それはだれも幸せにはならない。

なんか大袈裟で、人に心配させてしまうような内容を
書いてしまっているかもしれないけど、
感受性豊かな自分は、この時間が必要なんだなって思う。
自分の氣持ちを、感じたことを外に表現する時間、その作業。
自分の中に留めていたら、消化不良を起こし、
いろんなところに支障をきたす。

私の天職、与えられた使命は感じたことを、
自身の感受性を表現することなのかもしれない。
そう自覚した途端、心が喜んでいるように感じる。

はぁやっぱりこの表現している、
自分の言葉が残っていっているこの感覚、
人に伝えているこの感覚。
まさしく歓喜である。

私のwell-beingそれは
ありのままに自分の感受性を表現すること。
自分の感覚をめいいっぱい樂しむこと。
感受性の弧線が振れる出来事や作品に触れて生きること。

今、素直な氣持ちを書き出せたことに
今、感受したことを表現できたことに
大いなる感謝を。

最後までサリーの感受のエンターテイメントを
一緒に樂しんでくれてありがとう。
またみなさんの感受の表現も樂しみにしています。
ではまた。

Have a well-being days♪
サリー

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