3月3日(日)雨

今日は自信を持って天気が雨だったと言えます、なぜなら外出したからです。高校のときの友人と川の上にあるお店でランチして、電車に乗って、歩いて、楽しかったな。本を1冊買った。

消費のあり方に対する姿勢をわたしはまだ決めきれていなくて、それは例えばフリマアプリの使い方とか。

本ってね、いいんですよね、でも高いんだ。その中身と使用期限から考えるとなんにも高くないけど、ほんとにきちんと買おうと思うととてもかさばる。本当のことを言えばすべて新品で買いたいが、なんだかんだ買うきっかけになるのはその安さや割引率であったりもする。しかし制作者への敬意をどうするか……。

化粧品類をフリマアプリで買うことについてはなにも問題がないとわたしは考えている、なぜならそれら製品は使用に伴って量が減るものなので、1個あたりの価格も製作が上手く回るように決定されていると考えれば、1個を受け継いだ使用者が何人に増えようが問題ないからだ。これはフリマアプリで売られることによって、社会に流通する富が増えているということになる(なるよね?)からよいのではーとも思わなくない。

ところが本の場合は別だと思っていて、たしかにモノとしてのそれら1冊あたりのコストと考えれば、うーん、一度支払われた時点で完了していると考えてもおかしくないのかもしれないが、何人の手に渡ってもその分量が減らない(ずっと1個=100%である)ことが、自分にとって引っかかっている点である。

もし読まれるごとにページ数が減るのであれば、人が消費した量が正しく売り上げに反映されることになるだろう、しかし本はそうではない。減らない。ずっと100%のままで人の手を渡り続けることが可能である。

うーーーんでもそれが、開発者への敬意……とかってなるとそのラインがよくわからなくなるんだよな。開発者への敬意を示すのであれば、化粧品だって新規購入したほうがいい、うーん、なんかその考えを入れるのは説明の筋がよくない、やっぱり物量としての減少の話をしたほうがいいね……。

仕切り直してみる。

「あるものを購入するとき、その対価は、購入物の内容量に応じて、その制作者に支払われるべきである」と考えるとよいのだろうか。

例えばファンデーション1つの内容量を100とする。Aがそれを正規に購入する。この時点で、ファンデーション100に対する対価は完全に制作会社Bへ支払われた。Aがそれを10使う。必要がなくなる。90余る。ここでフリマアプリを利用して他人Cに正規価格の50%で売る。誰かが買う。Aとフリマアプリには、本来なかったはずの利益が生まれる。流通する富が増えている……。

しかし本の場合はこうだ。本1冊の内容量は100。Dがそれを正規に購入する。この時点で、本100に対する対価は完全に制作会社Eへ支払われた。Dがそれを10回読む。必要がなくなる。表紙の一部が擦り切れ、カバーを紛失したとしよう。しかし、それでも本の一番大事な「中身」は100のままだ(特別な装丁だった、みたいな意地悪は今回はなしにしよう)。ここでフリマアプリを利用して他人Fに正規価格の50%で売る。誰かが買う。Dとフリマアプリには、本来なかったはずの利益が生まれる。流通する富は増えたが、先述した「あるものを購入するとき、その対価は、購入物の内容量に応じて、その制作者に支払われるべきである」は満たされていない……。

これなんですよね、モノとしての本はたしかに減りうるが、だからといってその1番の売りである中身は減らない……という……。本来この100を得るためには正規ルートで買うべきと思うんですよね、やっぱり……。

でもぶっちゃけ消費者に都合がいいのは明らかにフリマアプリを利用することで、それが「消費者の賢さ」だと思う。ものは減らせるし半額以下で読めるし、もともとかかるはずだった金額で倍程度の知識を得られる。

でもそれでいいのかな〜、と思うんですよね。いいのかな〜。そういう状況の中でうまくいくようなモデルを制作者が作れなければ、いずれ本は生まれなくなるかもしれない。そういう長期的な目線で見たら消費できなくなるわけなので、「消費者としても賢くない」のかなあ、とか。

どの視点で見るか、まだ迷っています。積極的に応援したいなと思っている人の小説などは必ず正規で買っているけど、正直それ以外はなあ。金銭に余裕があるわけでもなく。国民の収入がめちゃ増えたらみんな新しいのを買うんだろうか? 仮に地球の環境という視点から見た場合、流通量は少ないほうがいいわけですよねえ。増刷しないほうがいい……。

自分は何を大事にするのか、という話ではあると思う。なんだろうね?

今日本屋さんを覗いたときに、帯に「津村版ガリバー旅行記」と伊坂幸太郎のコメントが書いてある本を見かけた。

ふ〜ん、と思ってぱらぱらして、ちょっと好きそうかなと思って、迷った。メルカリアプリを開いて、うーん、やっぱり半額以下、だよねえ。300円で買えるなあ。amazonの中古でも300円。文庫の定価は724円。うーん。でも最近メルカリで1冊買ったんだよね。うーん。うーん。

と考えて、いや、でもやっぱりたまにはね、と思って、レジに持っていった。倫理と利便性だったら利便性のほうが多くの場合強烈なんだから、なんとか利便性も高く倫理も維持させてほしい、倫理っつっても別にフリマアプリに倫理がないわけじゃないですよ、優先するものが違うだけで。より安い価格にできたほうが経済的に困難な人も手に入れられるわけですからね。いやそれ考えるとなおさらむずいんだよな。どうしたらいいと思う?

やっぱわたしは社会全体の利益がどうとかよりも、自分がその瞬間、より大切にするものに利益がもたらされてほしい、と思う。(と最初書いたけど、読み返してたらなんか「持続性があってほしい」という気持ちな気がしてきた。出版社や著者印刷会社等が守られないとコンテンツは生まれないという意味で持続性が低い気がしているが、しかし、消費者が意識的に守らなければいけないというのも変な話、、、)出版社はどうしたらいいんだろうね?

ところでブクマ!の著者還元はその後進んでいるのだろうか。公式調べたけど出てこなかった、あと運営メンバーがメルカリに転職したりしてるみたいだけどどうなんだろ。

このnoteは勝間和代さんのツイートをきっかけとして書かれました。

ま〜本はオワコンて言われたらそれで終了なのかな。オワコンてもう言わないか。全部ネット上で公開されて本になるとしたら紙代だけで、あと全部投げ銭制にするとか?そしたら化粧品と扱いが近くなるか?いやでもコンテンツ料金は……うーん。

なんか今急に思ったけど、「お金」というものが存在しなければいいのでは?

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