東大落選の当然!

この記事は、今回、東大が、「国際卓越研究大学」から落選したことを明治維新以来の大事件と捉えて解説を加えている。
その意味で面白い。
なお、今回選ばれたのは、たった一校 東北大学だ!
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毎年、受験シーズンの終わりの3月を迎えると週刊誌は、こぞって、大々的に

「東大・京大特集」

を組む。

東大・京大を特集で取り上げる週刊誌の例(2021)


それも、この二つの大学以外は、大学にあらずという扱いだ!
このような風潮を真に受けて、世間や受験生は、この2大学に殺到する。
とくに、中高一貫校が、集中する。
東大の例では、
中高一貫校・・71%
公立高校・・・29%
である。
東大理III医学部に至っては、
中高一貫校・・91%
公立高校・・・   9%
である。
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しかし、ワシが繰り返し指摘してきたように、実態は、全く違う。
下の図1は、正しい偏差値を東大、京大、東北大について示したものだが、トップは、東大ではなく、東北大だ!
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確かに、東大には、全国から俊秀な人材が集結する。
東北大の地盤は、東北6県・北関東4県・北陸中部6県であるが、合格者(現役)は、
東北大・・・1360人
東大・・・・  430人
である。
やはり、東大合格者430人の方が優秀と見ることができよう。
しかし、この地域の18歳人口は、31.1万人である。
東大と東北大を合わせた合格者の偏差値は、
75.268 となる。これは、医学部並みの偏差値だ!
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何を言いたいかというと、東北大の合格者でも、十分に優秀なのだ!
それを最大限に活かすことができるかが
問われているのだ!
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東大に合格しても、必ずしも、設備や環境が整っているとは限らない。
また、天才的な教授がたくさんいるわけでもない。
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今の東北大総長の大野英男は、東大出身だが、東北大の天才 西澤潤一に懇願して東北大に移籍した。
そして、スピントロニクス分野で、いま、ノーベル賞候補者なのだ!
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東大が、「国際卓越研究大学」から落選したのは、当然であるかもしれない。
油断をしたのだ!

1922年に、東北大学を訪問したアインシュタインは、東北大学を評して、
「将来、世界の競争相手になる大学だ!」
と言ったと記録にある。

それが、実現化したのだ!

最後に、最近の世界大学時価総額ランキングを表1に示す。


表1  世界大学時価総額ランキング
 天才輩出、世界を変革する独創技術・製品、およびノーベル賞の3分野の世界大学時価総額ランキングをしめす。
天才輩出では、創立以来800年以上の歴史を有する英国ケンブリッジ大学だ! また、世界を変革する独創技術・製品では、日本の東北大学が89件と世界一だ!
ノーベル賞受賞者数では、米国のハーバード大学だ!
総合評価では、辛うじて、東北大学が世界一である。

(c)harbeman230908
Deep thinking yields imagination


図1  東大、京大、東北大の実偏差値。

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Smartnewsを引用する。

■ 東大の「浪人」  6月時点で実質的に「東大・京大・東北大」の3大学に絞られていたとも聞き及びますが、まずなにより注目すべき点として、私は「国の大規模な高等学術助成で、東大がほぼ初めて落ちた、東大落第」というポイントに注目したいと思います。  実は、私はこれを大変望ましいことだと考えています。  断っておきますが、私は東大卒の現役東大教官で、東大は母校であり勤務先です。現役の東大教授として、東大にたのむところもたくさんある。  その観点から、良い転機になると、正味で考えています。  人によっては誤解されるかもしれない「伊東は東大教授なのに、東大の落選を喜んでいる、とんでもない、けしからん」うんぬん。  とんでもない。私にとっては東京大学は私一代でなく父祖の代がらの母校で、東京大学そのものに寄せる思いは、昨日今日、ここ20年や30年やってきた人とはケタが違います。  そういう観点から、昨今の東京大学の状況には憂慮するところもたくさんあり、裏表なくよいカンフル注射になればと思うのです。  「なぜ東大は落ちたのか?」  これを深掘りすることは、明治以来の“日本株式会社”が持つ後進国体質の脱却に繋がる希望があると考えるのです。具体的に記してみましょう。
■ 公正だった「卓越研究大学」選定  まず選考側から見てみます。良い選考をしたと私は評価しています。  「国際卓越研究大学」の選定にあたっては10人のメンバーからなる「アドバイザリー・ボード」がコミットしていることが発表されています。  10人のうち2人は女性(ともに日本人)、2人は外国人(アジアと欧米各1人、いずれもシンガポール国立大学関係者)、経済人が3人含まれ(うち女性1人)と、従来の日本のこの種の選定組織とは色合いが変わっています。  実は、その中には、東京大学関係者も2人含まれています。一人は理学系研究科化学専攻の菅裕明さん、もう一人も理学系で、カブリ数物連携宇宙研究機構長の大栗博司さん。   いずれも東大教授ですが、一つ共通点があります。  それは東大出身ではないということ。変なしがらみで親研究室代々の利権など煮凝りに手足を固められたりしていない。  大栗さんは京都大学物理学科出身の俊英で、もともと私より2学年上で、修士修了直後に東大助手に着任され、私は物理学演習の担当で板書でも一緒に計算してもらったことがあります(大栗さんは覚えていないかもしれません)。  実によく切れる、快活な、本物の知性と思いました。  こういう印象はバカにならないんですよ。例えば、大学1年のとき、質問しようと教師棟をさまよっていた私に声をかけ、シュレーディンガー方程式を一緒に解いてくださった米谷民明先生(東京大学名誉教授)など、本物の切れる知性というのは、日常生活でそれと知れるものです。  大栗さんに戻りますが、彼は東大とは別に米国のカリフォルニア工科大学教授として素粒子論の一線で世界を牽引、東大がどうの、利権がどうのというレベルの人材ではありません。  もう一人の菅さんは岡山大学工学部工業化学科、同大学院修了後、渡米してMIT(マサチューセッツ工科大学)で生化学の学位を取得。  米国での指導教官は日本から頭脳流出した故・正宗悟教授で、彼についても後に触れたいと思います。  菅さんも同世代、私より一つ上ですが、博士号を得たのち、1994年から3年間米ハーバード大学メディカルスクールのジャック・ショスタク研究室でポスドクを務めました。  1997年に独立してニューヨーク州立大学バッファロー校着任、2003年頭脳再輸入で東大先端研に着任し、2006年には東大発ベンチャー「ペプチドリーム」設立に参加。  軒先として東大は出てきますが、スタートから世界の一線で仕事してきたトップランナーです。  こういう、東大にも浅からぬ関係がある、グローバルレベルの創造的な知性、学術経営のマネジメントも世界水準で知悉する人たちから見て、東大は「初回は見送っておきましょう」と落第させられた。  では、トップランナーはなぜ「東大案ではダメ」と引導を渡したのか? 
■ 東大デザインスクール案の落第  私も任官以来25年、学生からだと40年来、複数の立場で中から東大を見てきましたので、空気感はよく分かります。  今回のような新施策では「結局、東大が外れることはないだろう」という驕りが学内にあった可能性を否定できません。  今回、そういう慢心が見事に打ち破れらたとしたら、本当に日本のため、未来の学術のために望ましいカンフル注射になったと思うのです。  誤解のないように、藤井輝夫総長以下、東大側スタッフが手を抜いていたとかいうことではありません。  藤井総長は私とは元来同学年で、いろいろ配慮してもらったこともあり、感謝しています。  また、かつて彼が若手助教授だった頃、私たちが設立したTLO(技術ライセンシング・シンクタンク)「東大総研」として、藤井ベンチャーを全力で応援したこともありました。  そんな彼が総長という立場で舵取りをして取りまとめているはずの今回提案ですが、落とされてしまった。なぜ、ダメだったのか?   世界のトップランナーたちによる東大の「採点簿」は、ここのリンクの10ページを見ると記してあります。引用してみましょう。  通信簿(1):特に、新たな全学的教育研究組織として、プロボスト直轄で「College/School of Design」を創設する計画は、分野横断・学際的なアプローチなど、大学全体の変革を駆動する構想としては高く評価できる。  東大は「カレッジ/スクール・オブ・デザイン」つまり東大デザインスクール案を「全学的教育研究組織」として「プロボスト」直轄で創設する、とぶち上げて玉砕した。  東大デザインスクール案では通用しなかった、ということです。  ここでプロボストとは、総長が大学の「経営」を統括するのに対して、大学の研究を率いるトップをプロボストと言っている。  誰がなるにしろ、東大型のプロボストで「デザインスクール」は、因襲的に作れば最初から失敗するのが見えています。  これは1999~2000年「文理融合に芸術も加えて学際融合でアート系制作系学生を育てる」と、今回より小規模にその種の組織「情報学環」を、映画評論家でもあった蓮実重彦総長のもとで立ち上げた当事者として、私自身、根拠をもって証言できます。  凡俗の手法であれば、必ず「情報学環」の二の舞を踏む。  はやい話、25年が経過しましたが、例えば工学系の先生たちは、アート系制作系の学生をどう指導したらよいのか、独自の価値をもつ博士課程の学位発給の審級、クライテリアを提出できていない。  学外学会で査読論文3本あれば、よしとする、といった学位の番人たる大学研究科としてはかなり自殺行為に近い慣習なども染みついてしまった・・・。  約24年間、かやの外に置かれてきた一教員として、あるいは原子分子のミクロの挙動から厳密に立ち上げ、音楽の前線で役立つ仕事を四半世紀来積み上げてきた一教授職として、この大味ぶりでは無理、とただちに判断がつく。  通信簿の続きを見てみましょう。
■ 調整型没個性、護送船団方式の沈没  東大案落第の通信簿の続きです。  通信簿(2):他方、大学全体としての変革を求める本制度の趣旨に鑑みれば、研究力が国内でも高いポテンシャルを有する大学として、既存組織の変革に向けたスケール感やスピード感については必ずしも十分ではなく、工程の具体化と学内調整の加速・具体化が求められる。  ここで書かれている「スケール感」とか「スピード感」とは何を意味しているか、この種の官僚作文に慣れていない人には、読解が困難かと思われるので、通訳してみます。  スケール感とは、要するに、既存学部組織(既に様々なメリットの配分が出来上がっている「地主層」みたいなものを考えればいいでしょう)の既存の利害を温存し、どこからも文句が出ない「調整型」の寄り合い案になっていることを意味すると思えば理解しやすい。  「スケールを大きくしてみました」では、これへの対策の正解にはならない。  ここでの正解は、「エッジのたった、世界に通用するイニシアティブが存在していない」スケールの小さな寄り合い所帯の折衷案に陥っていますよ、という指摘だと理解する必要がある。  考えてみてください。第1次大戦後、世界のデザイン史を変えたドイツの「デザインスクール」バウハウスは、建築家ヴァルター・グロピウスという強烈な個性が指導し、工業デザインからアートまで、歴史上比類をみない先進的な活動を展開。  ヨハンネス・イッテン、ヴァシリ―・カンディンスキー、パウル・クレーといった高度な創作力と先鋭的な知性を具備する巨匠が火花をあげながら合作、やがて一部離反も引き起こす、劇的な展開があった。  その波及力は今日に及び、例えば私のラボが故P・ブーレーズと始めた仕事もクレーのパラダイムに直結している。  その程度、歴史を生き抜く力を持った「デザインスクール」の創始があった。  あるいは明治20(1887)年、上野の森に創設された「東京美術学校」も、若き米国人経済学者アーネスト・フェノロサ(当時34歳)の合理的な経営方針のもと、フェノロサの学生であった岡倉覚三(天心、当時24歳)は20歳で現在の東京大学文学部を卒業、文部省音楽取調掛勤務を経て、師のフェノロサと(西南戦争後の財政難で失敗国家状態にあった日本で)(外資を導入する担保たり得る国宝などのリストアップから)東京美術学校の創設を準備、設立者、初代校長として強烈な個性を発揮、1期生の横山大観や六角紫水以下、世界に打ち出せる日本芸術の創始創造に邁進した経緯がありました。  どうしてこういう経緯に通じたかというと、私自身34歳だった1999年、この種の経緯を調べ、東京藝術大学学長だった平山郁夫さんや、六角紫水の孫で芸大美術学部長なども務めた建築の六角鬼丈さんに応援してもらい、青雲の志をもって組織設立に尽力、極めてエッジのたったものになりました。  ところが、「設立早々目障りだ。時間をかけて東大の中だけ、学内の学部間で調整して作り上げていくから、芸大生や慶應湘南藤沢、ICU(国際基督教大学)なども多数参加して学内的には大変目障りな、木曜午後のアート系制作系ゼミナールはやめるように。自主解散しろ、東大の中の和を乱すんじゃない」と石田英敬氏などに強要され、学内既存圧で研究室解体の憂き目にあった経験があるからです。「通信簿」の言う「スピード感」の欠如とは、まさにこの種の性癖を指しているのにほかなりません。
 いま東大で「全学横断」などとぶち上げるなら、必ず既存学部の有力者の顔を立てるといった「調整型」の配慮と、「広く学内から声を吸い上げる」として、実際には十数人程度、あまり多くない人数があらかじめ選ばれ、各部局に配慮の行き届いた「調整案」を上げて来るわけで、その調整に、スタッフは苦心し腐心し全力を注いでいる。  そのファインプレーを私は一切否定しません。  ただ、そのように学内調整すればするほど、国際的にエッジのたった「新しいデザイン原理」を「東大から」打ち立てることは困難になる。  今回の「デザインスクール」に、MITメディアラボがぶち上げたような、新しいコンセプトがどの程度記されているか?  その検証がすべてを物語ることでしょう。 むろん東京大学の中にも、世界をリードするデザイン原理は存在しないわけではありません。たとえばJRなどの自動改札「Suica」で知られる山中俊治さんには確かな原理に基づく、世界でエッジを切るもの作りをリードしてきました。  ただ、この3月で定年したところなので、現役として牽引するというには、日本の官僚制的に問題がある。  私自身のラボも1原子1分子の置換で1ニューロンの発火が制御され、意識の下のレベルから脳と身体の応答を前提に音楽を展開するラボなど、海外のどこにも存在しませんので、パリでもミュンヘンでもニューヨークでもアムステルダムでも私自身の仕事で指導に当たります。  そういう「エッジがたった仕事」が変に目立ってしまうと、むしろ学内「調整」でヤスリが掛けられてしまう。  だれか一人が突出すると、それをやっかむ別の個人、あるいは別組織がいろいろなことをするのが、東京大学というより明治以来、日本型組織が罹患する慢性病になっている。  北里柴三郎を追放し、慶応大学医学部が立ち上がった明治の東大医学部、そこからさらに外れた野口英世の昔ならずとも、一度は「Tron(トロン)」で世界を席巻した俊英、坂村健さんをついに定年までヒラ教授に留めたのが、いま上に記した「調整圧」の現実。  1999年に私たちが作るはずだった「東京大学初のアートスクール」情報とシステム学域は、坂村教授・伊東助教授で発足しました。  しかし、その後に何があったか。ここでは紙幅が尽きましたが、別の機会に記すこともあろうと思います。  東京大学が、本当に世界に打って出る新しいスクール(別にデザインスクールでなくてもよい)を作りたいなら、総長がイニシアティブを発揮して、きちんと世界に通用するエッジのたったプリンシプル、独創性あるビィジョンを打ち出す必要があります。  そして、そのような「エッジ」「独創性」を嫌うのが、明治以来の日本組織が延々と温存する「護送船団方式」の横並びにほかなりません。
 落第通信簿の続きを見てみましょう。  通信簿(3):今後、構想の具体的内容を学内の多くの構成員が共有し、全学として推進することが確認できれば、認定候補となりうると考える。  例えば今回のこの案、私は25年来東京大学で上記のようなエッジのたった芸術=科学の研究室を率いていますが、まさにそれが理由となってでしょう、一切事前に話も聞かされず、相談されたこともありません。  「各学部から選ばれたタスクフォース」的なものが寄り集まって、調整をすればするほど、国内では円滑、国際的には基幹競争力=コアコンピタンスの源泉となる、先鋭な個性は消えていく。  これがいけないという指摘も古くからあって、2010年代は「選択と集中だ」ということになりましたが、その結果がどのようであるか。  日本の創造的活力がここ10年、20年、弱体化の一途という話は、データを含めて広く流通する結果が示す通りでしょう。  「こんなことでは、ダメですよ、目をお覚ましなさい!」と学内有識者も含めた採点官からノーを突き付けられた。  だから「今回の東大落第は『大正解』」と、根拠と合わせてここに建設的に提言を記しているわけです。  大学は、よくこの事実を直視し、あるべき我が国の未来に向けて、意義あるかじ取りを進めてほしいと思います。もちろん私もできる協力を惜しむつもりはありません。  現状のような「調整」では、護送船団丸ごと沈没に漸近のリスクを、避けられるか、私には定かではないように思われます。
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世界トップレベルの研究機関育成、その候補に東大が落選した理由(JBpress)
https://news.yahoo.co.jp/articles/e77c7ac9d3316773ca43e2d2f87040b6c11d3fefを引用する。